ゴー宣DOJO

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トッキー
2024.5.30 05:00ゴー宣道場

根本の部分が違っていれば、何をどうしたっていつかは破綻が来る

彼はどうして「ゴー宣ファン」を名乗ってしまったんでしょうねえ…

もしも「世界のおぼっちゃまくんファン」だったら、仮に「『おぼっちゃまくん』も『ドラゴンボール』と同じ、バトル漫画だ!」とか言ったとしても、ヘンな読み方をする人もいるもんだなあ、で済んだでしょう。
他の何の漫画であっても、「読み方は人それぞれ。どう読んでもいい」で通用したかもしれません(厳密にいえば、それにも限度はあると思いますが)。

しかし世界で一作品だけ「読み方は人それぞれ。どう読んでもいい」が許されない漫画があります。
それが、世界唯一の思想漫画『ゴーマニズム宣言』なのです。
彼はそれを理解していませんでした。
『ゴー宣』が「思想漫画」であることも、それ以前に「思想」とは何なのかも、わかっていなかったのかもしれません。

「ゴー宣道場」で、普段出会えない人とつながることは楽しいことです。
その楽しさは否定しませんが、それだけを目的とする人は、いつの間にか道場からいなくなってしまいます。何かが、ついていけないと感じるのでしょう。
彼も結局はそのクチだったようですが、彼が特殊だったのは、ただ去っただけではなく、「ゴー宣道場」の外に『ゴー宣』を介して人が集まる場を作って、自分がそのお山の大将に収まったというところです。

彼は、『ゴー宣』には「ヘビー」なファンと「ライト」なファンがいて、ゴー宣道場に行ったりライジングコメント欄に書き込みをしたりしない「ライト」な層を自分が引き受け、すそ野を広げるというようなことを言っていました。
しかし、よしりん先生の思想と真逆の「公より私」「お仲間主義」を公言してしまうような人の下に「ゴー宣ファン」が集まるということ自体に、私は違和感を覚えていました。
それって、故・堀辺正史師範が常に危惧していた「分派活動」って奴じゃないのか? と思ったのです。

ヘビーもライトもありません! 本当に『ゴー宣』ファンなら、よしりんの下に来ればいいじゃないですか!

ゴー宣道場が初めて地方で開催されたのは彼の働きによるものだったし、コロナワクチンの意見広告運動においては彼のサイトが大きく役立ったことなど、功績があったことは認めます。
しかし、それはコロナ論における井上正康氏の功績を認めることと同じです。

これまで、限定されたテーマにおいては共闘出来て、功績のあった人は何人もいました。そしてその多くが、別の場面では失望させられるという結果になりました。
結局は、何を目的としているのか、思想を共有できるのかというところで決まってしまうのです。

根本の部分が違っていれば、何をどうしたっていつかは破綻が来るものなのだと、今回改めて思い知らされた次第です。

トッキー

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