最初は好きで始めたモノカキ業ですが、
次第に色々背負うようになります。
11月6日より刊行される
私の単行本『本多猪四郎・無冠の巨匠』も、
なんとなく書いちゃったら出来ちゃった……
ではなく、二十年かかってしまった分だけ、
果たさなければならなかった役割がありました。
それを、以下に書いてみます。
一.ゴジラは「映画」だ
戦後を代表する映画のキャラクターの
ひとつである「ゴジラ」。
いままで評論家たちや、一家言ある人たち、
あるいはゴジラシリーズを監督した当人からすら
「ゴジラは神」「核兵器の象徴」「台風や巨大災害の比喩」
……色んな事が言われてきました。
たしかにどの要素も、本多猪四郎監督が生み出した
昭和29年の最初の『ゴジラ』には入っています。
しかしもし私が「ゴジラとは何か?」と問われたら、
まず最初にこう答えるでしょう。
「ゴジラは『映画』です!」
怪獣という現実にはあり得ないものを、
何かの比喩でもなく、象徴でもなく、
そのものとして具現化すること。
本当にゴジラが、丘の向こうから
「ぬっと」現れたような気にさせること。
そしてゴジラがゴジラであるための
最大のインパクトとは何か?
ゴジラを生みだした時、
本多猪四郎監督は何に一番手応えを感じていたのか?
本書はまずそれを明確化します。
二.映画における監督の役割
本多猪四郎は空想特撮映画において、
所謂「本編」監督としてクレジットされています。
怪獣や超兵器の出てくるところは特撮監督にお任せで、
企画はプロデューサー、ドラマは脚本家が作るので、
空想特撮映画の「本編」監督というと、
役者の芝居部分のまとめ役ぐらいしかやることがないんじゃないの?
……といった限定的なイメージを持つ人もいるかもしれません。
実際、本多監督に対して、
現場を器用にとりまとめるだけの
「職人」に過ぎないという見方があり、
SF特撮映画が大好きで本多監督の熱烈なファンを自称する人でも、
その役割については曖昧にしか答えられない人が多いと思います。
本書では、本多監督自身が所持し、
具体的な演出を書き込んでいた台本に当り、
一作一作の映像作品と丹念に比較。
本多監督が実際に何をやっていたのか、
初めて本格的に検証します。
三.映画は「科学」だ
明治生まれであり、
まだ誕生して日が浅い映画の黎明期に立ち合いながら、
映画と一緒に大人になっていった世代である本多監督にとって、
映画は科学技術そのものでした。
そして科学の作用(役に立つ部分)と反作用(害になる部分)は、
本多監督にとって、生涯追求したテーマでした。
『ゴジラ』の中で、原作者の幻想小説家・香山滋が用意した、
世界中の核実験が自粛されたという希望的なラストをひっくり返し
「核時代に入った人類はひき返す事は出来ないのではないか?」
という課題をつきつけた本多監督。
その精神は、
『ガス人間第一号』『マタンゴ』『フランケンシュタイン対地底怪獣』といった、
人間そのものをゴジラになぞらえるかのような、
後続する作品群で継承的に展開されていきますが、
本書ではそのすべてにおいて本多監督がなした仕事を検証します。
従来ゴジラシリーズのみに焦点が当たりがちで、
近年はマニアックな話題に閉じ込められていた
SF怪奇シリーズや超科学戦争映画、
ゴジラの登場しない怪獣映画にもスポットを当て、
本多監督の持続的な問いかけのありようを見ていきます。
四.「怪物物語」としてのゴジラ
ゴジラは科学によって生み出された怪獣ですが、
科学で生み出される怪物の起源は、
SF小説の元祖『フランケンシュタイン』にあります。
そして本多監督は
ゴジラとフランケンシュタインの映画を
両方手がけた事のある監督です。
怪物が登場する物語は、
それを生みだした近代人の物語でもあります。
「人は人とたらしめるものは何か?」
「人はなんのために生きているのか?」
科学時代に生きる人間が突き当たる問題を直に問う事が出来るのが、
怪物物語なのです。
本多監督は、そこに真正面から取り組んだ人でした。
そのことを、改めて捉え直します。
五.SFとメロドラマの起源は同じ
本多監督の演出は時に「大メロドラマのよう」と言われ、
東宝内部からも「SF特撮映画には向いていないのではないか」
という声がありました。
しかしメロドラマの起源とSFの起源は同じであり、
それは偶像に生命を吹き込むという点において、
映画の起源でもあるのです。
そして本多監督自身は、
実はメロドラマは苦手だという意識を持っていました。
本多監督にとって男女の愛とはどのようなものだったのか?
代表作の一つ『ガス人間第一号』の詳細な検討を軸に、
デビュー作から一貫して描かれてきた女性像を浮き彫りにします。
六.戦場での本多猪四郎、そして日本人にとっての「大東亜戦争」
本多監督は軍隊経験が約8年間あります。
インタビューでも、必ず軍隊体験を
自分のもっとも重要な体験だと語る本多監督。
それでいて、
戦争中の事については多くを語りたがりませんでした。
没後発見されたメモや日記などから、
一兵士としての戦場がどのように、
本多監督のドキュメントタッチの演出に寄与しているかを
見ていきます。
そこには2・26事件、日本軍と中国民衆、
軍と慰安婦の関係、そして先の大戦における天皇のあり方など、
いま国際社会の中の日本人にとって
消えずに残っている事に対しての、
当事者によるかけがえのない証言があります。
そして本多猪四郎個人の体験にとどまらず、
明治に生まれ、戦争を経験し、戦後にSF特撮映画を作り、
それを受け入れた人々にとっての
「南方ユートピア」「幻の大東亜共栄圏」
「勝ち組、負け組」といった、
日本国民総体の意識を、20世紀の未来となったいま、
時代として再体験します。
七.出羽三山の宇宙観
生きたまま木乃伊になる即身仏信仰の山形県忠連寺を出身地とし、
僧を父をする本多猪四郎は、
しかし偶像崇拝を嫌い、科学によって宗教を乗り越える道を選びます。
でありながら、本多夫人は
「生涯、宗教的な人間だった」と本多監督のことを語ります。
子どもの時以来、二度と故郷に帰ることのなかった本多猪四郎が、
科学の果てに見出した宇宙観は、
宗教の真理と重なり合うものでした。
本書は本多監督が描いてきたSF映画の、
その先にある、未来の科学、未来の人間、
そして未来のゴジラについて問題を共有します。
その時、僕らは、
いまだ本多監督と同じ未来を生きていることを実感できるでしょう。
以上、私がこの本で担わなければならないと思った点です。
私自身、本多猪四郎という存在を軸に考えないと、
日本のSF特撮映画やゴジラの事をどういう角度から分析しても、
決定的な部分のピースが埋まらない。
靴の上から足を掻いているようにしか感じられない
……という思いを抱いていました。
だからこそ、
時に「自分には荷が勝ちすぎるテーマだ」と
挫けることがありながらも、
結局、このテーマに帰ってきました。帰って来ざるを得ませんでいた。
本書は、私の現時点で出来ることです。
もちろん、最終的な完成ではありません、
これを読んだ皆さんと一緒に、作っていきたいと思います。
「我々は未来に向かって出発する。まだ見ぬ、未来に向かってな」
(本多猪四郎監督作品のセリフより)
というわけで、今回も宣伝ですみません。
なにせ一冊の本を世に出すということは、
「これで世の中変えてやる!」ぐらいの
妄想爆発の時期なのです。
よろしかったらご一読を。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4800302218?ref_=cm_sw_r_awd_as2qub0D74BVG
その刊行記念トークが11月6・7日(木・金)19時から、映画評論家の町山智浩氏との連続対談というかたちで、ユーロライブ渋谷で行われます。6日は本多猪四郎監督、7日は宮崎駿監督がテーマです。
http://eurospace.co.jp/eurolive/141010.html