出先で携帯に電話が入った。
ただならぬ気配。
既に相手は、電話口で泣いている。
「国分さんが…亡くなりました」 行きつけの飲み屋で倒れていたと。
我が敬愛する国分隆紀兄の、突然の訃報だった。
兄とは、兄が早稲田の学生だった頃に出会った。
だから、もう35年以上の縁だ。
学生時代、桜が咲き初めた春の1日、早稲田キャンパス内の、
兄が属していた国策研究会の出店
(サークルが会員勧誘のために机を引っ張り出し、
椅子も何脚か並べていた)で、
午前10時から2人で一升ビンを抱えて飲み始め、
その後、6号館地下にあった同研究会の部室に移動して飲み続け、
夜になると高田馬場の飲み屋に繰り出し、
最後は兄の下宿に乗り込んで、翌日の午後1時頃まで、
ほとんど2人きりで、延々27時間も飲み続けたことがあった。
話が尽きることも、話に飽くということもなかった。
或いは天下国家を憂いて悲憤し、
或いは清く美しかるべき乙女への憧憬を、熱を込めて語った。
我が青春の、かけがえのない珠玉のような一駒だ。
九州に居を移した兄とは、ここ暫く会うことも、手紙のやり取りも、
電話で話すこともなかった。
しかし一旦会えば、学生の頃と何の変わりもなく、
胸襟を開いて話が出来ることを、爪の先ほども疑ったことはない。
その国分兄が、忽然として逝ってしまった。
既にとうに過ぎ去りながら、
どこかで今も引き摺り続けている気でいた青春のしっぽが、
兄の死を知った瞬間、永遠に失われてしまったような悲哀を覚えた。
ああ、せめてもう一度、兄と杯を傾けたかった。
兄の涼やかな眼差しと、含羞を帯びた生真面目な語り口が、
こんなにも早く、永久に喪われてしまうとは。
私の手元には、兄の手作りの詩集2冊だけが、遺った。
『春のかぎり』(昭和54年、限定版)
と
『おほぞらの祝祭』(昭和57年、限定6部の1冊)だ。
兄が伊東静雄をこよなく愛したように、私は兄の詩が大好きだった。
世俗には知られずとも、兄は私にとって、
ほとんど今の世の唯一の詩人だった。
兄の死にあたり、兄の処女詩集
『春のかぎり』から「悲歌」を掲げ、我が追悼の思いを託す。
悲歌
悲しき歌を奏でた日に
音もなく花びらは流れ
人々は過ぎ去つてゆく
忘却の彼方へと
花にうもれた奥津城(おくつき)に
剣の墓標は朽ちていた
それは そのまま一群れの
哀しみに咲く花だつた
野辺に立ちて いま思ふ
悲しき命つみ重ね私らはある と
さうして ひとはふたたび…
悲しき歌を奏でた日に
青い空は鳴り渡る
征くひとの出発のやうに
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