ゴー宣ネット道場の配信動画『せつないかもしれない』では、
ゴー宣20周年に寄せて、初期のスペシャル『差別論』
『脱正義論』を読み直す、という試みをしています。
http://www.nicovideo.jp/watch/1343377507
そこで、まず最初に番組パートナーである女優のしじみさんに
「差別って、身近に感じたことがありますか?」
と問うたところ、
差別というものを考えるときに、
実に本質的な、「なるほど」というような
答えが返ってきました。
これには、いつも番組の監督として立ち合われてる
小林よしのりさんも驚いていたのですが、
ぜひ、皆さんにも
見てもらいたいと思います。
差別の根にあるものは、
もう小学校に上がる頃から、
経験として持ちながら、
人というものは大きくなってきている
のではないかと。
ただ忘れているだけで、
社会人として経験を重ねる前から、
あるいは差別という「問題」を知る前から、
人は、いつのまにか作られている「空気」を内面化し、
それによって人を選別するということを
既に行っている。
その意味では、子どもの頃から「社会」を潜在的には知っている
ともいえるのではないでしょうか。
社会問題として差別に改めて触れ、あるいは報道で
いじめの事件を知り、
昔の自分がどうだったのかも忘れて
「そんな理不尽なことで人を分けるとは」
「現場の人間は何もしなかったのか」
あるいは
「見て見ぬフリも同罪だ」
とばかりに義憤に駆られ、当事者を叩く私たち。
しかし実際には、もともとの原因やきっかけなどを
問題にする前に、既に抗えない空気が
出来てしまっている・・・・・・ということが
多いのではないでしょうか。
「なんだかわかんないけどあいつは違う」
「暗くいじいじしてるから悪いんだよ」
などと、その空気は一人一人に内面化さえされてしまいます。
その時、日蔭の側に置かれた存在に
手を差し伸べる勇気があったでしょうか。
そして、出来てしまった下地の上に
いじめが起きた時、どれだけの人が
それを止める行動を起こせるでしょうか。
人は既に幼く、柔らかい頃から、
試されている存在なのではないか、
と思います。
それを、どういまに活かしていけるのかを考えない
「正義」は、言葉だけで暴走し、
いじめを告発しているつもりで
誰かを叩き、いじめを再生産する
ことにもつながるのではないかと思います。