よしりん先生の
登場です
師範の間で意見が割れて
議論になったのが
大変面白かったという
感想を聞きます。
納得しなかったのが、
予定調和を崩して意外な方向へ
議論を発展させていきました。
尖閣諸島購入問題の
陥穽を突いた笹さんの直観は
まったく正しいと、わしは思います。
控え室に戻って来て、
高森さんが開口一番
「今日は笹さんが功労者ですね」
と言ったのは爽やかでした。
議論の最中に師範同士で
意見が割れてもいいんです。
参加者どうしで意見が
割れてもいいんです。
公論形成の途中で、
間違ったことを言ったり、
勘違いがあったり、
迂闊な発言をしたり、
熟慮が足りないまま先走って
意見表明したり、
偏見で言ってしまったり、
そういうことは師範にも
参加者にもあるんだと、
まず念頭に
置かなければなりません。
そうして、大事なことは、
納得したら 「なるほど」
「そういうことか」「わかった」
と言ってしまって
公論に向かうことです。
今まで「朝まで生テレビ」
その他の議論の仕方が、
議論のための議論で、
むしろ 「ケンカ」 をショーとして
見せてきたから、
「ケンカしなければ面白くない」
「激しく挑発し合わなければ
面白くない」 という、
議論を見るときの悪癖が
でき上がってしまっています。
もちろん
こういう議論の傾向に、
『ゴーマニズム宣言』 が
影響を与えてきただろうことも
認めます。
だが同時に、
『ゴーマニズム宣言』の
挑発やケンカ腰がなければ、
薬害エイズや、
オウム真理教や、
自虐史観と戦うことも
できなかったという
事情もあったのです。
論敵をねじ伏せなければ
ならないという宿命があります。
しかし、
「ゴー宣道場」での議論は、
そういう種類のもので
あってはならない。
「公論」を目指すときに、
師範どうし、
あるいは参加者も含めて、
相手をねじ伏せる
議論である必要はない。
熟議をして、自我(私)を捨て、
プライドを捨て、ひたすら
何が正しいのかだけを目指す。
「公論」を目指す。
わし自身の態度も
振り返りながら、
その「ゴー宣道場」の原点を
忘れないようにしたいと思います。
問題は、
観客になる人たちです。
好きというのでは困るのです。
果たして「公論」の核は
つくれるでしょうか?
新たな議論の作法をつくる
挑戦とも言えるかもしれません。