よしりん先生の
登場です
ツイッターで
「面識のない俺を呼び捨てに
するんじゃねえよ」
と怒り始めたわけだが、
一体どういう感覚なんだ?
わしも 「小林よしのり」 と
敬称ぬきで語られることは多いが、
呼び捨てにするなと
怒ったことなど一度もない。
わしは畏怖の感情すら持つ
手塚治虫について語るときも、
「手塚さん」 とか 「手塚氏」 とか
敬称を付けない。
「手塚治虫は漫画の絵は
記号と言ったらしいが、
大友克洋は自分の絵は
記号ではないと言う。
秋本治はどう考えるだろう?」
などと語るのが普通だ。
大友克洋も秋本治も知人だが、
一般論として話題にするときは、
敬称は付けない。
そんなことは
当たり前ではないか?
加藤紘一も麻生太郎も
古賀誠も安倍晋三も知人だが、
「氏」を付けることもあれば、
付けないこともある。
公人を一般論で語るときは、
敬称は気分次第である。
面識のない公人に
敬称を付けないのは
普通にあることで、
橋下徹のように
「市長」 の立場にある者が、
「俺様を呼び捨てにするんじゃねえ」
と怒り狂うのは
常軌を逸してないか?
金正恩なら国民に
「俺様を呼び捨てにするんじゃねえ」
と怒るだろうが、
橋下徹は 民主主義国家 の
「公人」 であり、
「権力者」 であるという
己の立場を自覚しているのか?
これは年上とか、
年下とかは全然関係ない。
日本という
民主主義の国においては、
公人について話題にするときは、
敬称ぬきでも構わないのだ。
政治家(権力者)の
こういう感覚を放置しておくのは、
わしは民主主義の危機だと思うが、
マスコミはそう思わないのだろうか?
提灯記事を書いた連中は、
「橋下氏」と記述してるが、
それはあくまでも
提灯記事だからだろう。
ツイッターの中でも
「マンセー橋下同志橋下将軍」
と媚びるような連中が
橋下を甘やかしているらしいが、
そういう連中はカスである
国民が政治家を批判する時に、
いちいち 「氏」 とか 「さん」 とか
付けるべしと
強要されるいわれはない。
橋下徹は
「俺を批判するとは何事だ」
と言ってるのだ。
中野剛志は
橋下徹より年下だが、
公人を批判する時は
敬称ぬきでもよろしい。
これは当たり前だ
「中野さんは橋下さんより年下だが・・・」
などと書いた方が
気色悪いだろう。
まったく奇妙なことだが、
昨日から橋下徹のツイッターでは、
突然 「中野氏」 「小林氏」 に
なっているという。
「あんたも16歳年上の小林氏を
呼び捨てしてるじゃないか」
とツッコミを入れられたためらしいが、
中野剛志も小林よしのりも橋下徹も、
公人なんだから、
敬称ぬきで構わないんだよ。
『「橋下徹の愛国度」を仕分けする』
であって、
すでにSAPIO編集部が
呼び捨てにしている
まず、SAPIOに怒れよ
わしはあくまでも橋下徹の
「愛国心」 を仕分けしたのであって、
大阪の行政の勉強なんか
する必要はない。
橋下市長が、
君が代を強制して
「大阪都構想」 などと
「都」 を乱用するのは
「尊皇心なきポピュリズム」 だと
わしは仕分けした。
「都」 は
単なる行政自治体の
制度説明のために
乱用していい言葉ではない。
天皇について、皇室について、
お前こそが勉強しろ
とわしは言っているのに、
橋下はまだわかってない。
反省する気も
勉強する気もないようだ。
さらに
橋下徹の 「TPP賛成」 は、
愛国心に矛盾すると
わしは仕分けした。
フランスのサルコジだって、
格差を拡大し過ぎて、
失業者を増やし過ぎて、
今、窮地に立っている。
サルコジを批判し続けたのが
エマニュエル・トッドで、
自由貿易は民主主義を
破壊すると唱えている。
さらに言っておくが、
わしは橋下徹の 「脱原発」 は
怪しいと見ている。
政治家は政策より人格・人柄で
選ぶべきだと言っていたが、
わしはそれに異を唱えた。
今、「中野氏」と書いたのは、
すでに知人だからであり、
「わしズム」に執筆して
もらっている関係性があるからだ。
わしは政治家の人格は問わない。
政策が問題だと考えるので、
橋下徹が「俺を呼び捨てにするな」
と怒る非常識な人間であっても、
「TPP反対」「脱原発」なら、
支持するのだがね。
「原発賛成」であるから、
そこは『ゴー宣』で批判したし、
今回の対談でも
原発の安全保障に関する考え方は
合わなかった。
もし橋下徹が徹頭徹尾
「脱原発」を貫いて戦ったら、
その政策に関しては、
わしは評価するだろう。
石原慎太郎もわしは
「尖閣諸島の買い取り」
は大評価するが、
「原発推進」 は
馬鹿野郎と思っている。
石原は
「パトリなきナショナリズム」 であり、
「尊皇心」も怪しい。
わしは人格こそ
見ぬけないと思うので、
政治家は政策で判断する。
橋下徹が
敬称を付けてほしいなら、
わしに会えばよい。
政策で合意できて、
親密感が湧いたら、
「橋下氏」と言うだろう。
親しくなっても、
批判すべきときは、
つい敬称を省略してしまうのが、
わしの正直すぎるところである。