ゴー宣道場の「ソーシャルメディアの罠」でゲストに来て下さったこともあるジャーナリストの佐々木俊尚さんは、毎日興味深い記事をネットで見つけると、ツイッターでご自分のコメントとともにリンクを貼っています。
その一環で、週刊ポスト記事への反論を紹介しています。
いま出ている週刊ポストでは、福島産の銘菓、野菜、米などが近郊のSA(サービスエリア)で大量に捨てられているという記事が載っています。この記事は、以下のURLでネットでも見ることが出来ます。
http://www.news-postseven.com/archives/20120313_94151.html
外部からの来訪者が、福島の食べ物は放射能に汚染されているから食べられないと忌避し、けれど地元の人からおみやげで貰っても断れず、またお義理で買い物してあげても、実際には帰り道のSAで捨ててしまうというのです。
あまりに悲しすぎるその噂ですが「福島県内の高速を回ると、残念なことにそれが事実であることは簡単にわかった」と、記事にはあります。
それに対して、現地の安達太良のSAで勤務している人から、デマの疑惑が濃厚であると全面反論が出されました。この反論に対して、新聞記者経験があり、これまで大メディアの欺瞞をいっぱい見てきた佐々木俊尚さんは「説得力ある」とコメントしています。
週刊ポストの記者は、件の記事の冒頭で「新聞・テレビにあふれる悲劇や美談だけでは大震災の真実は語れない。真の復興のためには、目を背けたくなる醜悪な人間の性にも目を向けなければならない」と、正義のためにあえて声を挙げたと言わんばかりの口調で記事を始めています。
そして、結びにはこうあります。
「大規模な調査により、県民の内部被曝も年間許容量(1ミリシーベルト)の2%程度という結果が出ている。科学的根拠もなく、危険を煽るエセ学者や市民団体などは、それでもまだ被災者をイジメ続けるのか。」
つまりポストは、「不当な差別でイジメられている福島県民」を理由に、放射能被害に対して不安を持つことまでも否定しているのです。
問題なのは差別であって、放射能被害そのものではない、と。
それを言うために「目を背けたくなる」差別事件をでっちあげている……のだとしたら、まさに「醜悪な人間の性」という言葉はこれを書いた人間に当てはまるのではないでしょうか。
この記事への疑惑を論証した安達太良のSAで勤務している方は、「この記事こそが『差別される福島』という空気を作っている」と、憤りをあらわにしています。
既に当ブログで小林よしのりさんが言及していますが、NHKのドキュメンタリー番組『埋もれた初期被爆を追え』では「不安を煽るな。差別に繋がるぞ」という呪文それ自体が、「初期被曝のデータがない」ことを招いていたという、おどろくべき事実を明かしています。
将来、甲状腺ガンを誘発するかもしれない「ヨウ素131」の初期被爆は、原子力安全委員会が調査をするよう助言していたのにもかかわらずデータがありません。
それは原子力災害対策本部が、以下のことを理由に行わなかったのです。
「本人家族及び地域社会に多大な不安、いわれなき差別を与える恐れがある」
原子力災害対策本部は、国民の生命や健康よりも、まだ起きてもいない「差別」を理由に、調査自体を行わなかったというのです。
差別事件を作ってまで放射能被害に対する警鐘を鳴らす声を封じようとする週刊ポストとまったく同じ構図が、大震災直後の原子力災害対策本部の方針に、既にあらわれていたのですから驚きです。
いまになって「データがないのに不安を煽るな」などと言いますが、そのデータを取る機会そのものを「反差別」を理由に奪ってきたのです。
前回の道場で、東北取材を一時中断して証言に駆けつけてくれたジャーナリストの田上順唯氏が、「問題なのは、どの程度自分が被爆しているか判断基準が奪われてしまっていることなんですよ」と語っていたのを思い出します。
『埋もれた初期被爆を追え』に出演した、浪江町二本松津島地区で診療所の医師をしていた関松俊二氏は「内部被爆の検査を特に浪江町、津島区の避難した人は優先的に一刻も早くやってほしい」と国や県に訴え続けた人物ですが「正確な被爆線量を把握しなければ、住民がリスクを意識し、健診などを受ける動機が生まれない」と発言しています。
弘前大学では、初期データのない中でも可能な限りの材料を集めて、あくまで仮定に基づいた試算値を出しています。その行為自体が「不安を煽るのでは」と大学内で論議もされています。
しかし「知らせないことの不安」の方が大きいのではないかという方向性になっています。
これは当然だと思います。ガンだって、現在では本人に告知することが前提になっています。現実を可能な限り知り、医師と患者が一緒に対策を練っていくのがいまの医療のあり方です。
弘前大学ではやはり調べた限りを浪江町住民に伝えて、一緒に対策を練っていくことにしています。
ここで問題なのは、一人ひとりの生命や健康のことだけではありません。今朝の東京新聞一面では、原子力安全委員会が進めようとしていた原発事故に備えた防災重点地域の拡大方針を「原発の安全性に対し、周辺住民や国民の不安感を引き起こす」という理由で原子力安全・保安院が検討凍結を要求し、断念に追い込んでいた事実を報道しています。
事実から目を背けているうちに、国全体の対策が遅れていく。
「3月15日前後のデータに関しては拡散の状態すらもつかめない。適切な観測のデータがなかった。心当たりのある向きはなるべく公開してほしい」と先のNHKの番組で弘前大学では呼びかけています。
3・11の経験を、今後の地震や原発事故を想定して活かすとしたら、
・国家が強制力を引き受けて検査を実施する
・被爆検査にはヨウ素を特定して測る計器が必要
最低でもこのようなことは、ジャーナリズムは繰り返し伝える努力をすべきだと思います。
「被災者だけが当事者なのではない。国民としての当事者性とは?」と、小林よしのりさんは、ゴー宣道場選書のコピー(当HPのTOP画面参照)に書かれています。
被災者のことを慮るという言い訳で「差別につながる」と決めつけて、考えないようにする。そして「どうせ俺は当事者じゃない」と目をそむける。
……いつまでもそんな日本人でいいのでしょうか。
そこを「国民としての当事者性」で乗り越える。ゴー宣道場の中でも、普段の生活でも、そのことを考えていきたいと思います。
ポスト記事への疑惑を記した安達太良のSAで勤務している方は、以下のように書いています。
[被災地の帰りにSAに寄ってお土産を買ったり、食事を取ったりしてくれる人を
心の底からありがたいと思いました。
助けられてるって思いました。
孤独じゃないと思いました。
だから頑張れるって思いました。
我ながら恥ずかしいことかいてますねw
この記事を書いた人は、そういった絆だとか団結だとかで
復興が進んでいくのが何か都合の悪いことでもあるのでしょうか?]
(mixiにおける「もりりん」さんの記事より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1829824427&owner_id=10107499)
「放射能安全神話の流布のためには、福島県民は差別され続けなければいけないのだよ」という悪魔の声が聞こえてきそうです。
作られた差別、作られた風評被害による「国民の分断」を決して許してはいけない。
そう思います。