ゴー宣DOJO

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切通理作
2011.11.16 23:22

ソーシャルメディアの罠

 トッキーさんのブログを読んで、言論人とネットの関係について、日ごろから思っていることを書きたくなりました。

たとえばツイッターでの発言の問題点を指摘され、それが痛いところを突かれていて、第三者にやりこめられた場合、「私はツイッターを議論の場だとは思っていない」などと言って、ごまかす言論人が居ます。

私はこれに強烈な違和感を覚えるのです。

 

「ツイッターの発言はすぐに流れてしまって、論議に向かない」というのを利用して、自分の考えを明らかにせずはぐらかし続けているのではないか?

これを私は卑怯だと思います。

それが名前のある人の場合、権力的な行為だと思います。

 

匿名の一人ではなく、メディアで流通している名前で自ら登場しているということは、たとえそのこと自体で稿料が発生していなくても、表現者としての仕事の延長上にあると思います。

他のメディアで仕事しているという実績もコミで、その人の書いているものを受け止める読者もいるはずなのですから。

 

もしそう受け取られるのが嫌なら、最初からまったくの匿名で、別人格として発言しなければならないのではないでしょうか。

 

しかしそういうことを、プロの書き手でも認識していない人がいます。

否、受け手の中でも「ツイッターだから、あの人は十分に議論を展開できなかったんだ」などと勝手に斟酌してしまって、それ以上は問題にしないという向きもあるのではないでしょうか。

 

どこで発言しようと、自ら公に発信している限りにおいて、責任の範囲に例外はないと思うんです。

 

もちろん、ツイッターだから、「つぶやき」の気楽さや、「140字以内」という制約に添った表現になるということはあります。

私もツイッターの方がくだけた表現になりますし、原稿料をもらってるところでは書かないような、「今日は何食べた」などという他愛のない話題をしたりします。

 

しかし、たとえばTPPのような社会的に共有される命題の場合、その場その場で言ったことに対して、一貫した主体として引き受けなくていいなどということは、あり得ないと思うのです。

 

そういう、言葉の重みや責任の「線引き」について、皆さん、どの程度まで認識しているのでしょうか。たぶん、色んな考えをお持ちだと思います。

 

いま小学校でもネットの使い方を教えていると言いますが、日進月歩でパソコンもソーシャルメディアも進化/変容しているのに、ただの機械の操作の仕方を子どもの時から教えても、あまり意味がない気がしてなりません。

 

本当に学ばなければならないのは、コミュニケーションツールと、自ら発信するメディアであるという部分の整理ではないでしょうか。

 

奇しくも、小林よしのりさんから、来年1月15日のゴー宣道場のテーマを教えてもらいました。

 

題して「ソーシャルメディアの罠」。

 

この「罠」という言葉が気になります。ソーシャルメディアの否定ではなく、その用い方の問題として、ここらで一旦整理して考えたいと思っていたところなので、私にとっても、まさにドンピシャのタイミングでのテーマである気がしてなりません。

 

皆さんも一緒に、我々を取り囲むメディアやコミュニケーション・ツールのありようを考えませんか。

 

次の次の月の道場の、いささか気の早い誘いでしたが、皆さん気に留めていただければ幸いです。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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