「ジャパニズム」という雑誌で、次号、なんと私が小林よしのりさんのインタビューをすることになってしまいました。
『国防論』刊行に合わせたインタビューなので、ちょうど次回のゴー宣道場の、なんとも贅沢な「予習」にもなる……と自分に言い聞かせ、ビビりながらもその大役を引き受けた私ですが、小林さんに「インタビュー」という形でお会いするのは、それこそ1995年以来、実に16年ぶりになるのではないでしょうか。
当時は「宝島30」という、論壇とサブカルが混ざったような雑誌でのインタビューでした。「宝島30」は私もよく書かせてもらっていましたが、創刊時に「必ず5年は続ける」と謳ったのに、2年ぐらいでなくなってしまいました。休刊の時パーティがあり、若い私はお世話になった雑誌であるのにもかかわらず、「そんな葬式みたいな会には出たくもない」と思って行きませんでした。
しかし、小林さんから当日出席されたと後で聞き「あれ、居なかったねえ」と言われ、私のような者も含めて、なくなってしまった雑誌に関わった人間のことも気にかけている小林さんの「惻隠の儒」に対し、うっすらとした後悔の念とともに、己の器の小ささを恥じ入りました。
16年前の私は、国家のために命を捧げる世の中など暗黒であり、日本がそんな時代に戻るなんてとんでもないと思っていました。いま保障されている個人の自由が、冷たい「国家」というシステムに吸収されてしまうことの怖さを感じていました。
いま私は『国防論』を読んで、正反対の感覚を持っています。
国家主義自体が近代の産物であり、それがなければ、個人はむき出しの力の世界にさらされてしまう。国家があったからこそ、我々日本人は個々が平和に暮らしてきた時代があったのではないかと、認識が改まりました。
小林さんが東日本大震災の被災地に足を運び、思いを寄せながらも、そうした自然災害よりもなお、他国に侵略された状態は無残なのだ……と描いているのが印象に残っています。
そしてそれは軍事衝突のみを意味しない。TPPの問題もまさに交戦状態の前から他国に侵略を受けている。食糧という基本的な部分で、その「痛み」が今後かなり深刻化するおそれがある。
インタビューの中でも小林さんはくり返し「国家が防波堤になり得るのではないか」とおっしゃっていました。
そのような話題を、私も読者の一人としてかなり「共感」すらしてインタビューではうんうんと頷いていました。
しかし、自分たちの問題だけじゃなくて「他国を飢え死にさせることが出来るのか」という小林さんの問いに、私はハッとさせられました。
やはり私はこの16年間、成長していない人間です。そこまで身に染みて考えていませんでした。
国家という枠組みがあるからこそ、敗れた者や他国の人間に持てる「惻隠の情」。
(もちろんそれ以前に人としての器の問題がありますが)。
経済戦争の中で敗者は死んでいけばいい……というリベラリストのグローバリズムに、より残酷で無情、そして獰猛なむき出しの「暴力」を感じる心。
それが大切なのだと思いました。