「話せばわかるというのは嘘。バカに話をしてもわからない」という解剖学者養老孟司さんの『バカの壁』という本がベストセラーになった時、僕は「頭のいい学者さんが、僕みたいなバカをバカ呼ばわりした本が売れてるなんて、身も蓋もないヒドい時代だな」と思って、いい印象を持ちませんでした。
しかし、いま思えば、それこそが「バカの壁」だったのです。自分がそれまでの生き方から強固に築き上げてしまった壁を前に、対象を見ることが出来なくなっている――それが養老さんの言う「バカ」なのですから。
本にしても、なんにしても、ロクに読みしないで、中身を知ろうともしないで、感想を言う人が、世の中多いのではないでしょうか! この私も含めて。
いや、仮に読んだとしても、まったく受け取れないということも、あるのではないでしょうか。
そういう人は、小林よしのりさんの『国防論』を読んでも、「国防」という言葉から受け取った「自分の」イメージについて何か言ってるだけ……ということが多い気がします。
ツイッターの140字も、その人の前後のつぶやきとは無関係に、単語やひとつのフレーズだけ取り出して判断されます。それで判断されても仕方がないというのがツイッターの不文律。
裏を返せば、人の言っていることを咀嚼しないでも、そんな自分の態度は問われることなく、手軽に「言いたい欲求」が満たせることになります。
そういう表現形式に慣れてしまうと、文脈が作れなくなります。ひとの文脈も読み取れなくなります。条件反射のように、何か言ってるだけになります。
ゴー宣道場は、すぐに自分が発信者になれるツイッターと違って。ただ参加するだけでも、往復ハガキを出さなければなりません。
そしてゴー宣道場は「公論」の場です。
公論ってなんでしょうか。
「公のことを論じるってことでしょ?」……僕も最初はそんな感じで受けとめていました。
しかし、ただそれだけなら、公のためを思っているはずが、いつのまにか公のためを思っている「自分」の表出の場になってしいかねません。
「公論」について小林さんは『国防論』の中で「日本国家全体の利益をもたらす公平・公正な方針」と定義づけています。
つまり公論は、自分だけに都合のいい、自分の承認欲求を満たしてくれるための言論ではなく、自分を超えた、主観の向こう側にあるものとの往還を、想像力として持っていなければなりません。
その想像力の範囲も、無制限に広く、茫漠としたものではなく、同じ国民として責任を分け合える、この日本という国を単位に考えること。
自分が自分だけに終わらない、その場で当たり散らしたり溜飲を下げるだけに終わらない、考えるに足る視座を持つこと。
その場としてのゴー宣道場には、いまの時代の行き詰まりを超えたものがあると思います。
ぜひ興味を持った人は参加してみてください。
今度のテーマは『国防論』です。一口に「国防」といっても、いったい我々は国民として何を「守る」べきなのか、一緒に考えていければと思います!