ゴー宣DOJO

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切通理作
2011.8.3 01:30

なかった時代としての「戦後」

  僕は宮崎駿の評論本を書いたということもあり、宮崎アニメの新作は必ず見に行きます。
  今夏、宮崎駿が脚本を書いた新作映画『コクリコ坂から』も見に行きました。
  この映画は東京オリンピックや首都高開通、新幹線開通の年である1964年の前年、1963年を舞台にしています。1963年といえば国産テレビアニメの本格的な第一号『鉄腕アトム』が放映開始された年であり、宮崎駿がアニメーターとしての経歴を始めた年でもあります。
  日本全体にとって、高度成長に向けての歩みの、ひとつの成果がもたらされる前夜の年であるといえましょう。

  しかし、映画館で買った『コクリコ坂から』のパンフレットを上映前にパラパラめくりながら拾い読みしていて、僕はボーゼンとしました。
  役者の一人が1963年を「(モノが)なにもない時代だった」とコメントしていたのです。
  この若い女性は、当時を焼け跡闇市の時代かなんかと同一視してるんじゃないのかな、と思いました。
 
  87年生まれじゃ無理もないのでしょうか?

  戦後日本人がどうやって豊かになってきたのかということを、たぶん誰からも教えられなかったか、ひとつひとつが断片的に耳目に入ってきたため、直接体験のない彼女には、大きなものとして構成しようもなかったのかもしれません。

  もう一人、コメントを寄せている男の役者は、80年生まれなので彼女より7歳年上ですが、1963年当時の特長として、「携帯電話がない時代」という言い方をして、人とのつながりがいまよりあったと語っており、これには僕は呆然というより脱力を感じました。

  たしかに携帯がなかったのは事実であり、間違いではない。
  でも携帯電話が不可欠なものとして普及したのは90年代後半以降の話でしょう。90年代中盤ぐらいまでは、まだまだポケベルも一般的でした。

  つまり彼の場合は、自分自身も生きてきたはずの、同時代体験すら語れないということになります。

  そして、いずれにしろ彼らにとって戦後というフィールドは、敗戦直後も高度経済成長前夜も等しく「いまほどモノがなかった時代」でしかない。

  いやむしろ、先に進めば進むほど、戦後というフィールドは時間を喪失し、人が自分自身の体験を歴史と重ねにくい空間になっている。

  考えてみれば、かくいう私も、情報環境ひとつとっても、たとえばネットではパソコン通信、mixi、Twitter、Facebookとやりとりのスタイルが変わり、携帯電話からアイフォンと次々に機種変更し、つい数年前まで自分が何を用いて人とやりとりしていたのかも曖昧模糊となってきています。

  技術の革新が人の意識と連動しない。
  そんな時代に入ってきているのです。
  嘆いてもしかたがないのかとも思います。

  小林さんのいう「坂の上の雲を目指すのではなく、坂の下の土地を耕す」
生き方の転換。
  その予感を若者たちの方が、感覚的に捉える契機があるのかもしれない。
  震災ショックをまともに受け止めることのできるのは
若者たちかもしれない。
  
  戦後日本にとっての「坂の上の雲」であった高度経済成長
すら、もう何のリアリティの痕跡も留めない人間が20代、30代を
迎えてきているのです。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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