ゴー宣DOJO

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切通理作
2011.6.16 10:11

ゴー宣道場で原発を語る意義

 ゴー宣道場は小林よしのり代表師範はもちろんのこと、師範一人一人が、毎回、意義のある議論にしようと考え、「このことは言おう」ときっと各々胸に秘めているはずです。

 不肖私が、先日の日曜日に行われた『第14回 ゴー宣道場』に参加する時、個人的に強く意識していたのはふたつのことでした。
 このことだけは、話がどこに向いたとしても必ず押さえておこうと。

  ひとつは「仮に脱原発するにしても、原発推進の論理も積み重ねていかなければ、議論が先に進むわけがない」ということ。
  これは、被災地の長期取材をしている作家の泉美木蘭さんがゴー宣ネット道場の動画『せつないかもしれない』のゲスト出演で言っていたことで、その時耳にして以来、ずっと心に引っかかっていたのです。

  反原発も、原発推進も、お互いの論理をまったく相容れず、片方を悪役、片方を空想主義とすましてきたがゆえ、膠着してきた経緯があったのではないでしょうか。
  そしてそれは、いまでも続いていると思われます。

  当日はさすが師範方、私などが気にかけるまでもなく、両方の立場でくみ取れるところとその限界をともに見つめ、「左翼=反原発」「保守=原発推進」の枠組みを超える議論になったと思います。
  ぜひ動画UPの際には全編視聴してくだされば幸いです。

  もうひとつは、巷間言われている「原発がなくても、節電せずにこの夏もエネルギーが十分賄える」という言い方について。

  この言い方がまかり通れば、いままでどおりの電力消費をしていても、なんの問題もないということになります。

  「電力が足りない」などというのはすべて原発を推進したい東電の陰謀であり、節電・節制などいっさいしなくてかまわない・・・・・・という考え方でいいんでしょうか?
  このことは、ぜひ俎上に乗せたかった。

  そもそもエネルギーというもの自体が「諸刃の剣」であり、リスクを伴うものだという考え方をせず、この期に及んでなお「あるのが当たり前」と無制限に享受出来ると考えるのは、歪んではいないでしょうか・・・・・・・。

  しかしこのことについても、特別言挙げするまでもなく、逃げ場のない認識として共有出来たのではないかと思います。

  節電、節制を単なる「我慢」ではなく、先じて近代を乗り越えるありようとして日本人が全世界に示す新たな夢になり得るのかが、いま問われている。
  そこに話がつながってきたとき、ゴー宣道場で、あえて<原発>をテーマにしたことの意義が浮かび上がってきました。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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