先日の 「第14回 ゴー宣道場」 『3.11以後の日本は変わるのか?』
に出席して、
核に限らず現代文明は、
とてつもなく危険な
リスクを「少ない確率」で抱え込んでいる
というジレンマを感じました。
つまり、確率が少ないがゆえに
平時においては「忘れる」ように
出来ているのです。
しかしひとたび起これば、
共同体自体を丸ごと失ってしまうような
事態にすらなり得ることがまざまざと突き付けられた。
一度抱えてしまった原発。
この処理するのが著しく困難な
エネルギーとは何十年百年単位でつきあっていかなければいけない。
たとえなくす方向だとしても避けられない現実です。
それを意識し続けるにはどうしたらいいのか。
いまネットなどで反原発の憂さ晴らしをしている人たちが、
原発推進が撤回されたとたん関心を失ったとしても、
放射能は残り続けるのです。
僕自身、これから一生放射能のことを毎日意識し続けて
生きていく自信はありません。
原発政策を持ち続けていた方が、
我々は公の問題としてこれを意識し続けることができる
・・・・・・そう考えている政治家が居ても、おかしくないのではないかと
私は思いました。
段階的に原発を縮小していくべきだという
国民の声に伺える一種の現実主義も、そのような「長い目」を
意識したものという意味では通じているかもしれません。
しかし、
「長い目」で考えようと思っているうちに、
突然地震が来て大きな惨事にならないとは誰も言えない・・・・・・
という小林さんの発言に、
「そうか、地震は待ってくれないのかも」
とハッとさせられました。
そもそも今回の震災自体、
一時避難のつもりで
外に出て、そのまま帰れなくなった状況が
続いているわけです。
被災者というカッコにくくった存在が最初から
いたわけではないのです。
これと同じで、
地震は、エネルギー問題に対し
日本人が十分な用意をするまで
起きるのを待ってくれる・・・という保証なんかどこにもない。
それは、明日かもしれないし、十年後かもしれない。
そう考えれば、いまこそ引き返せる好機なのかもしれない。
すべての原発を即刻停止に導くことで、
これからを考える契機になる。
そうでないと、なし崩しになるおそれがある
・・・・というのも、その通りでしょう。
小林さんは、日本を変えるのにはあと三年だと
今年初めの道場で言いました。
近代をとらえ直し、
いつまでも坂の上の雲を見続けるのではなく、
坂の下の畑を耕す視座を持つためには、
何年もだらだらと「議論のための議論」
をやっていたって意味がない、と。
それは、この問題にも言えると改めて思いました。
立ちはだかる現実は、見つめなければならない。
いまこの時が未来に影響を与える以上、
長い目でものを見ることは必須である。
しかし、問題を先送りする言い訳にしてはならない。