ゴー宣DOJO

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切通理作
2011.3.21 01:13

「諦観」を織り込む「強さ」とは

村上龍さんは11日、東京での揺れを経験した時、新宿のホテルに居たといいます。机の下にもぐりこみ、「建物が損傷することはありません。ホテルを出ないでください」という館内放送を聞いた時、ホントに大丈夫かと懐疑的な気分になりながらも、次の瞬間、こう悟ったとニューヨーク・タイムズ紙への寄稿に書いています。

このとき私は直感的に、この地震に対する根本的なスタンスを決めた。少なくとも今この時点では、私よりも状況に通じている人々や機関からの情報を信頼すべきだ。だからこの建物も崩壊しないと信じる、と。そして、建物は崩壊しなかった。
(村上龍「危機的状況の中の希望」よりhttp://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/2581/

その瞬間、村上さんの頭の中に、自分の居るビルの耐震構造と震度との関係などの「客観的なデータ」などがあるはずもない。しかしこのときの村上さんの気持ちは、単なる自己慰撫の「センチメンタリズム」だとも思えません。

どんな権威のある大作家の命であろうと、人間社会への(いますぐ客観的には照応できない)「信頼」という土壌で成り立っている脆いものにすぎない。
これはある意味、諦観です。
しかし、脆い土壌だからこそ、多くの人の連鎖の上にあるものであると感じること。それを村上さんは作家としてまず第一に記したのではないか。

僕はそこに、個人としての「諦観」を織り込む強さを感じました。

前にここのブログで紹介した、岡田斗司夫さんによるツイッターでの発言にもこうあります。

僕たちは「普段は知らなすぎ」「非常時はムキになって知りたがり」だ。これ、逆であるべき。平時は注意深くニュースを監視すべき。非常時は思い切って専門家たちに任せるべき 
(岡田斗司夫「震災に対する理屈民族なりの対処法」 より
http://togetter.com/li/110864

 そして岡田さんはこうも言います。

「実は政府は隠してるけど」「実はこんな有害物質が」・・・こんなデマが出回るのも「善意」があるからだ。「自分の大事な人を、早く守ってあげよう」という善意。しかしそれは、非常時には「情報テロ」になってしまう。 
(岡田斗司夫「震災に対する理屈民族なりの対処法」 より
http://togetter.com/li/110864

 まさにその「情報テロ」そのものを新聞社がやってしまったのが、小林さんも話題にしている「AERA」3月28日号です。防毒マスクをかぶった作業員の顔のUPに「放射能がくる」という見出しを掲げて表紙にし、本文の記事でも「東京に放射能がくる」と、末尾に「!?」も付けずに断定的に書いてしまった。しかもこの記事は外部による寄稿ではなく、記者自らの作成つまり雑誌そのもののオピニオンと言っていいでしょう。他にも「放射能疎開が始まった」などと、もう東京には居れないという気分を煽るような記事を連動させています。

 さすがに批判も多かったと見え、「AERA」は昨日ツイッターで謝罪を出しています。

編集部に恐怖心を煽る意図はなく、福島第一原発の事故の深刻さを伝える意図で写真や
見出しを掲載しましたが、ご不快な思いをされた方には心よりお詫び申し上げます。
http://twitter.com/aeranetjp

 恐怖心を煽る意図がなかったという言葉を信じるとしたら、やはり岡田さんの言うように、これは良かれと思って起きた「情報テロ」でしょう。

 同時期に発売された「週刊ポスト」4月1日号は、週刊誌ですからもちろん政府への批判や問題点もいっぱい指摘していますが、しかし大きくは「日本を信じよう」という表紙の文句に、赤ちゃんを抱き上げる自衛隊員の姿が。

 ポストの取った態度は、単に倫理的にどうこうという以前に、村上龍さんや多くの日本人が感じている脆さと信頼を、感覚的に共有しているものだと思えます。
 「AERA」はそうした感覚を捉え損ねているという意味でも、雑誌として致命的だと言わざるを得ません。

 そのポストの中で、多くの識者と並んで小林よしのりさんがコメントを寄せています。

ここまでの災害に見舞われてしまうと、大多数の人々は何もできない。ボランティアがおいそれと入り込める状況になく、個人が物資を送ることも邪魔になる恐れがある。被災者への『がんばってください』という応援メールですら、携帯電話の電源をムダに使ってしまうから迷惑という状況なのだ。
(小林よしのり「天皇陛下とともに『祈る』」より)

 そんな時、人々が出来ることは「祈る」こと。その時、浮上するのは、ポストの見出しにもあるように、この「日本」という国に生きているという共同性です。
 祈るというのは、天皇陛下が国民のためにいつもなさっていることだとも小林さんは言います。 
 最後の最後は「祈る」しかないと胎を決めておけば、そこから逆に、少しずつ増えてくる「出来ること」のへ視界が拓けてくるのではないでしょうか。

誤解を恐れずに、あえて僕は言う。「もし、本当にダメな時が来たら、みんなで被害を分け合おう。一人だけ助かろうと思えば、けっきょく自分も周囲も不幸になる」 すごく愚かなことを言ってるかも知れないけど、理屈で考えたら、これが最適解ではないだろうか?
(岡田斗司夫「震災に対する理屈民族なりの対処法」 より
http://togetter.com/li/110864

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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