よしりん先生が
来てくれましたよー
ブログの閲覧数が上がるらしい。
わしが高森氏を追い出すとでも
思っているのだろう。
それをワクワクして待っている。
わしが高森氏の人格を
否定してるように
見えるのかもしれない。
門弟たちも心配するのだろう。
だが、それは
高森という男をなめている推測だ。
反論しても構わないのに
それをしない。
わしがいじめているように
見えてしまう。
皇統問題が勃発すれば、
わしは高森氏にメールで相談し、
高森氏は即座に
返信してくれている。
今でもだ。
わしが公開で批判したときに、
高森氏が小者ならば
いじけて去っていくだろうが、
彼は黙して語らずを貫くだけだ。
わしが「つくる会」の運動に
参加していた時から、
自己主張の強い理事たちの間で
ああやって耐えていた。
対立は避ける。黙して語らず。
それが彼の
日本男児の美学なんだろう。
高森氏の姿を見ていると、
わしは歯がゆくなる。
わしに襲いかかってくる
男系絶対のカルト雑誌に、
ちょろっと高森氏の文章が
掲載されていたりすると、
本当はわしは腹が立つ。
「何で高森が書いてるんだ」
と怒っておられるのだ。
激情型のようだ。
闘争心の塊りだ。
だが高森氏は違うのだ。
男系カルト雑誌が
まともな議論の場だとでも、
高森氏は勘違いしたか、
騙されたのだろう。
高森氏を怒ったりしていない。
わしは
「陣営」で人を見ることを
なるべく避けたい。
「個人」で評価したい。
わしには真似のできない、
ある日本男児の理念で
生きることを選択したのだろう。
「言霊の国の日本は
一度口にした言葉を
簡単には変えられない」
と門弟が言っているが、
そういうことなのかもしれない。
そういう理念を守らせながら、
「公論」に繋げなければならない。
十分しているのだ。
これだけは言っておくが、
高森氏は保守論壇村で
いばりくさっている
八木や新田のような小者とは違う。
世間でしか生きられない。
誰が大物かくらい、
誰だってわかっている。
本当の男は尊敬するし、
もちろん、本当の女は尊敬する。
西部邁らの大物感が、
いまどきの保守論壇村の
中年世代にはまったくない。
誰の目にも透けて見える。
高森氏は己を知り、誠実に、
分相応の働きをしようと、
構えている。
大物がいなくなって
小規模化した保守論壇村で、
言霊のない空虚な文章を書いて、
いばりくさっている小者たちとは、
高森氏は確実に一線を画している。
彼の自分を抑制した姿の中には、
実は 「狂気」 が宿っている。
保守論壇村の、思い上がった
卑小・卑劣な小者たちとは違う、
高森氏の 「抑制する狂気」 は
不気味ですらある。
高森氏は
この弛緩したまま
堕ちていく戦後の日常に
充足しているだけの男ではなかろう。
わしは彼を挑発する。
永久運動をやるつもりかと
挑発し続ける。
死を意識することができまい。
ある「公論」を
日本人に植え込む。
まずは師範と門弟・参加者から。
動画や書籍によって全国の賛同者へ。
そのためにはもっと
「ゴー宣道場」の磁力を
強化しなければならない。
「WiLL」の梶原さんと
単行本 『ゴー宣道場』第2巻 の
打ち合わせをした。
「ゴー宣道場」の議論を
リアルに再現する本を作った。
中身を雑誌感覚に
するように頼んだ。
いずれは
『わしズム』のようなものに
発展していく布石を作る。
その打ち合わせの席で
驚くべき話を聞いた。
『わしズム』を作らせろと
言っているという。
なんて男だ
「WiLL」の編集長をやってるのに、
そんな余力があるのか?
若い層を狙うし、
いわゆる保守主義の雑誌とは
まったく違うものにしようと、
わしは考えているのだが、
花田氏はあの年齢で
発想を転換できるのか?
わしにとっても
今は余力がないから
まだ先の話だが、
花田氏の
飽くなき挑戦欲を支える
「狂気」もまた
日本男児の一つの姿で
あることは間違いない。
歌舞伎者の系譜に
位置づけられるのではないか?