ゴー宣DOJO

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切通理作
2011.2.11 02:17

胸躍る「君と僕」ゴー宣道場単行本!

「ゴー宣道場」単行本(ワック出版)出ましたね!

小林よしのりさんがデザイナーの川上成夫さんと何度もやりとりしたというだけあって、装丁も、造本も、開いた時の見やすさもGOODです。

手に馴染むというか、何度でも手に取りたくなります。

内容についてですが、私は道場の当日(第3回以降)と、その後の動画、そしてゲラと、既に何度も接していますが、噛めば噛むほど味があり、教えられること、発見出来ることが次々と湧き出てきます。


ゴー宣道場の素敵なところは、「人」を通して、上っ面や形而上でない思想が語られることです。それが、文字上からも伝わってくると同時に、噛み砕いて咀嚼する機会が与えられたことは、まさに賜物です。


以下、その賜物のさわりをご紹介しましょう。


第1章 『君と僕』――公論とは何か 基調講演 堀辺正史

現代だと「君」とか「僕」なんていうのは軟弱な呼び方に聞こえる人もいるかもしれませんが、もともとは文武両道の道場の中で、分け隔てなくお互いを尊重し合うための呼び方だったのだと教えられました。


その「君」と「僕」はまた、お互いに匿名の存在ではなく、つまり相応の重みと覚悟を持った言葉を発し合う関係ということでもあります。


「君」と「僕」が作る<公論>の場。それがゴー宣「道場」なのだという、まさに胸躍る基調講演が、堀辺さんによってなされました。


現在存命の最高齢の方でも、江戸時代を経験している人はいません。しかし堀辺さんは「侍がタイムスリップしてきたような」と小林さんが形容するように、侍が生きた時代といまを結びつけます。歴史は生きているのであり、いま生きている自分も歴史的存在なのだと気づかせてくださいます。


第2章 皇室を語る「弁え」 基調講演 高森明勅


皇室のことを普段は遠い存在だと思っていても、高森さんのあの表情と語り口で天皇陛下への敬愛がこぼれ出るように語られるのを目の当たりにすることで、生きた人間と地続きな存在として感じられます。高森先生の口にされる皇室愛には無私の清浄な響きがあり、それは曲がった人間の私にもわかるのです。


天皇陛下がひたすら国民のために祈り続ける無私な存在として古来存在し続けたこと、そして国内のあらゆる権威の「上位」に天皇陛下が存在することで保たれる「弁え」。


従来サヨク、戦後民主主義陣営は「軍隊や警察は民衆第一ではなく、天皇を守るためにあるんだ」と、あたかもそれが悪いことのように言ってきました。しかし天皇陛下と国民が支え合うことで「国体」が存在しているならば、天皇陛下こそが最後の希望であり、敗戦を経てなお我々が保ち続けてきた歴史の連続性です。

 それがいま絶えようとしているということがどれほど「未曽有の危機」なのかがわかります。


第3章 政治家の本分と「希望の国・日本」 基調講演 原口一博、城内実


小林さんの対談集『希望の国・日本』にも登場された政治家お二人が道場にみえられました。

この回から、私は会場で傍聴することが出来ました。

直後の感想とレポートを過去の道場ブログに書いています。


・「
2010/06/24ブログ 世の中を分断する言葉を減らしてください」より

  原口大臣が「人と人とをつなぐことをしてほしい。必ずしも私の味方をしてほしいということじゃない。世の中を分断する言葉を減らしてください」と語っておられたのが印象的でした。

  人と人とをつなぐこと。ためにする議論を長引かせるのでもなく、揚げ足取りに終始するのでもなく、またそれらすべてに冷淡になることでもない、同じ俎上で物事を考えていける回路を、つなげていこうと努力すること。

 ゴー宣道場参加心得に書いてあったことは、こういうことだったのかと思いを新たにしました。

https://www.gosen-dojo.com/index.php?key=johim89or-57&page_id=0&block_id=57&active_action=journal_view_main_detail&post_id=86&comment_flag=1


私にとって初の道場体験は、その心得がすっと入ってくる体験であり、物書きとしての自分の姿勢にもターニング・ポイントとなりました。 


第4章 沖縄の本心 基調講演 宮城能彦


世の中を分断する言葉を減らしたい……それは沖縄と日本を分断しない、ということでもあると、改めて認識し直すことの出来た回でした。

こちらの回についても、過去の道場ブログに書いています。

                     

2010/07/14ブログ 『島国』日本人の歴史的主体」より

  普天間基地の問題は「日米同盟か沖縄県民感情か」ではなく、日本人という主体がアメリカひいては国際社会とどう相対するのかという問題であり、「憲法改革派も護憲派もその覚悟がない限り矛盾を沖縄に押しつけ続ける」という宮城さんのお話に、所謂「本土」と言われている側に住む同じ日本人として、射抜かれるものを感じざるを得ませんでした。

 テレビでも頻繁に沖縄の話題がなされながらも、「日米同盟か沖縄県民感情か」という以上に話題が進まない理由。それは実は日本人である我々自身に問われなければならないことなんだなと。

  一番問われなければならないことが、テレビでも口にされることが少ない。堀辺正史さんが「タブーになっている」とおっしゃるのも、そうかもしれないと思わされました。

https://www.gosen-dojo.com/index.php?key=jongukqbd-57&page_id=0&block_id=57&active_action=journal_view_main_detail&post_id=106&comment_flag=1


 今回活字になったものを読んでも「日本はポチになるしかないのではないか」という参加者からの問いを受けた時に宮城さんの示した「覚悟」に接し、心の中がカーッと熱くなった瞬間が蘇えってきます。

 本書収録のアンケートにもあったように「極限まで来た時に牙を向く宮城先生の覚悟」を、ぜひ読んで、知ってほしいです。


第5章 戦争を語り継ぐこと、そして現在の戦争 基調講演 笹幸恵、渡部陽一


 靖国会舘を会場に、<戦争>というテーマに真っ向からぶつかりました。


2010/08/18ブログ まるで知らなかった戦争」より

  「全否定も全肯定も、どちらも自己愛である」という笹さんの言葉は心に響きました。

 「全部悪かった」というのも「全部正しかった」というのも、結局は自分が気持ち良くなるための言葉に過ぎない。どちらも客観的な自分の姿を見ていない。

 「真の反省とは自己の客観化である」とパネラーの宮城能彦さんが呼応した時、僕も我が意を得たりと思いました。この場合の「自己」は「わが国」と同義です。

 戦争状態の時にどうだったかで「わが国」のありのままが見える。

戦争を「例外的状況」と捉えるのではなく、国民の体験として内面化するということ。


2010/08/18ブログ まるで知らなかった戦争」より

  渡部さんは、兵が前線に行かなくても、戦争がはじまり継続されている現代の戦争について語ります。アメリカの無人機が爆撃を繰り返して、人間の体温まで感知する。まさに『ターミネーター』の世界が到来している、と。

 渡部さんは9月には米軍の従軍カメラマンとして戦地に赴くそうですが、イラク戦争がすでに技術的には過去のものとなっていると聞いて、僕は戦争についてまるで知らなかった自分を思い知らされます。

 無人機が国境を越えても、人が乗っていないため、それを罰する法律が追いついていないというお話など、まさに戦争が現在から未来に差し掛かっていることを感じざるを得ません。

https://www.gosen-dojo.com/index.php?active_action=journal_view_main_detail&post_id=144&comment_flag=1&block_id=57&page_id=0


 戦争は過去のことではなく、我々の現在を問うている。だからこそ、我々は戦争のことを知らなければならないと、笹さん、渡部さんのお話を聴いていて思いました。


 以上、さわりだけご紹介しましたが、

 今回の単行本第一弾に収められたこの内容の濃さには眩暈がします。

 ぜひ第二弾も出るといいなと思います。

 第6回からは私も参加しています。

 今後も「ゴー宣道場」、本でもよろしくおねがいします。

 そして興味を持った方はぜひ道場に来て下さい。

 胸躍る体験を! 

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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