私は大学で日本文化についての講座を担当している。
海外からの留学生が受講することも多い。
マレーシアからの留学生が2人いて、1人はイスラム教徒で、もう1人がヒンズー教徒だったようなこともある。
彼らの証言は、比較文化論上の興味深い教材として、有益だ。
アメリカ人の留学生に、
ケンタッキーフライドチキンの店頭に置かれたカーネルサンダースの人形がアメリカには無いことを、
日本の学生達に説明して貰ったこともある。
あの人形は見かけは日本っぽくないが、実は我が国固有の文化の1つであることを分からせる為に。
中国の留学生には、食事のマナーの違いについて、語って貰った。
日本では原則として、出された料理は出来るだけ残さず食べるのが、エチケットだ。
残すと「美味しくなかった」というメッセージになってしまいかねない。
少なくとも、一度箸をつけた料理は全部平らげるよう心掛けるものだ。
ところが、中国の場合は違う。
逆に必ず残す。
「あれは何故?」と説明を求めた。
それは、残すことが「満足しました」というメッセージになるからだいう。
全部食べると「足りなかった。満足してない」になってしまうと。
なるほど。
どちらも、料理を出してくれた人への配慮である点では、同じ。
でも表現の仕方が全く逆。
しかも、それぞれ「合理的」だ。
どちらかが絶対に正しく、他方が必ず間違っているという話ではない。
そこに文化というものの面白さがある。
単なる相対主義、多元主義とも違う。
この場合だと、料理を出してくれた人への配慮は、
表現の違い、文化の違いを越えて、必ず求められているからだ。
そうした「違い」を超越する次元を自覚することで、一方では逆に個々の文化の違いに寛容になれる。
そんなところから去年4月の授業を開始した。
最終授業では「中国の良いところ、自慢出来るところ」を尋ねた。
「親を大切にすること」。
これは儒教で一番重視される点だ。
「ハッキリものを言うこと」。
私が「日本人みたいに曖昧な言い方はしないってことだね」と、
やや自虐的に水を向けると、
「そうです!」とキッパリ答えた後、大急ぎで付け加えた。
「あの曖昧な言い方が、相手に配慮した日本人らしい〈和〉を重んじるやり方なんでしょうけど」。
おや、いかにも中国的な断定の一方で、優しく「日本的」な配慮を見せてくれるではないか。
次に「日本の良いところ、好きなところは何かある?」と質問してみた。
彼らが異口同音に答えたのは
「日本人は礼儀正しい」「日本人はレベルが高い」ということ。
これは「日本的」なリップサービスではない。
まさしく中国的な確信に満ちた断定だった。
突っ込んで聞いてみると、こんなことを喋ってくれた。
「お店に入ると、ちゃんと『いらっしゃいませ』と言ってくれるし、終始、態度が丁寧。中国ではこんなことはない」
「満員電車に乗っても静かだし、駅に着くと、一部の例外を除いて、
ドア近くの人達は降りる人が困らないようにちゃんと一旦ホームに降りてあげている。あれは凄い」等々。
我々日本人が当たり前過ぎて気にも止めないことを、彼らは「日本の良いところ」として次々と並べ立ててくれた。
日本の学生達も自分達の大切な文化的な「財産」について、改めて考え直したのではないだろうか。
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