ゴー宣DOJO

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切通理作
2010.11.1 05:46

「差別」を乗り超えるための「近代」

          次回の、第8回ゴー宣道場『民族と国民の葛藤 -アイヌ系日本人からの告発-』で基調講演をされる予定の砂澤陣さん。
    アイヌ系の血を引く彫刻家であり、「後進民族アイヌ」という、アイヌ利権を告発するブログもされています。高名な彫刻家・砂澤ビッキさんのご子息で、その芸術を継承されています。
   
    小林よしのりさんが砂澤さんを迎えて、動画用に宮城能彦さんと私も交えた座談会『日本全国 入りまじり雑談』をしたことがあります。
    動画「よしりんにしやがれ」の第8回です。
   http://www.nicovideo.jp/watch/1283240018
    ご覧になりましたか?
    北海道出身の砂澤さんと沖縄出身の宮城さんを挟んで、福岡出身の小林さんと東京出身の私が「地域」というものの実感と幻想をクロスオーバーさせ、「日本」を見つめた、とても面白い座談会です。

    その中で小林さんが、かつて高倉健が主演したアイヌを主題にした映画『森と湖のまつり』(内田吐夢監督)に言及されていましたが、つい最近、ケーブルテレビでこの映画が放映されました。
    昨晩視聴したのですが、いやビックリ。
    小林さんが「この映画が作られた昭和33年の時点で、既にいまのアイヌ問題の本質が語られている」と言った意味がわかりました。

   この映画で健さんが演じるのは、いわば「義賊」です。彼は「ビャッキ」と呼ばれています。「敵を脅かす」という意味だと、劇中で説明されます。
   『日本全国 入りまじり雑談』では砂澤さんのお父さんがモデルの一人だと語られていましたが、どの部分がモデルになったのか、興味しんしんです。今度の道場でお会いした時にぜひ訊いてみたい!

   健さん演じる一太郎はアイヌ同胞のために、彼らが「シャモ」と呼ぶ和人からお金を脅し取り、あるいはアイヌを学術的に研究するための基金をかすめ取って、アイヌの村に井戸を掘ったり、子どもたちに本を贈ったり、あるいはアイヌであることを隠している漁師の網元に対して、自らアイヌであることを公表してアイヌの人々の雇用をせよと迫ります。

   暴力も辞さない野性的な男ですが、むやみに人を殺したり略奪したりはせず、あくまでアイヌ民族としての要求を代弁します。

  ただし同じアイヌの長老的人物は、一太郎のやり方に「力で奪ったものは実を結ばない」と抵抗を感じています。

  彼のよりどころであった「自分は純血のアイヌなのだ」というアイデンティティが映画のクライマックスで崩れます。
  一太郎が和人との混血だという事実を知らせる、かつて北海道中を旅してきたという元アイヌ研究者は、こう言います。
   「これだけはおぼえておくんだ。アイヌなんて、もうないんだ」

   以上のかんたんな紹介を読んだだけで、ピンとくる人はピンとくるのではないでしょうか。

   ひとつは砂澤さんが告発している現代のアイヌ利権の問題と、映画に重なるところがあるという点。
   劇中で一太郎がやっている恫喝や略奪は「和人に差別されているのだから、アイヌは和人のものをかすめ取ってもいいんだ」という論理で行われています。
   砂澤陣さんはアイヌ利権について、アイヌ協会の一部には同じ考えの持ち主がいると語っていました。
   
   そしてもうひとつは、純粋な血筋のアイヌ人が、この時点でもう「いない」と劇中人物によって断言されているという点。
  劇中では、アイヌと自認する人々はこの時点で「一万人」だというセリフがあります。

  昔は神によって自然の恵みがもたらされていたと回顧するアイヌの老婆に、アイヌの子どもは素朴な疑問をぶつけます。
  「どうして神さまからもらわなければいけないの?」

  現代ではアイヌは自然という神と調和しているという点で近代人が忘れてしまったものを教えてくれる存在だという認識がありますが、当時は、自然を人工的に支配する農耕を積極的に行わないアイヌの姿勢が、劇中で自己批判されているのです。

   この映画には、現代のアイヌ問題の原点が描かれていると言っていいのではないでしょうか。

  そしてこの映画で深刻なムードを醸し出しているのは、アイヌ「差別」の描写です。

  「ここでは肌を見せたりはしませんよ。絶対」
  この映画の中にはアイヌだと明かして暮らしている人と、和人の中に、それを隠して混じって暮らしている人が出てきます。後者はみんな実は知っていながら、表沙汰にしない。
  絵描きの卵である女性をヒロインに設定して、アイヌの人の肌の色の違いに言及させる設定はうまいと思いました。絵を描くためにアイヌ人の肌を見たいという彼女に、村の医師は先のセリフを言うのです。

  高倉健にせよ、俳優が演じる「アイヌ人」の、劇中での異質さを、このような形で浮き彫りにしているのです。武田泰淳の原作を、黒澤明監督の脚本でも知られる植草圭之助が脚色しています。

  中原ひとみ演じるアイヌの若い女性は、和人の若者と恋愛していますが、その恋人に、「私と結婚したら、無意識のうちにアイヌと見られる日々に、崩折れない勇気が必要よ」と切実に問いかけます。

  純粋なアイヌ人はいなくても、血筋や皮膚の色によるアイヌ「差別」は色濃く存在し、それゆえに、一太郎の行動の必然性も出てくるのです。
  
  一太郎の姉とかつて恋仲だった男はアイヌに理解のある研究者でしたが、やはり差別を乗り越えて結婚することは出来ませんでした。彼はそのことを一生悔みながら、いまは浮浪者となって現地にとどまっています。差別は人の一生すらも狂わせてしまう。

  北海道の事情が身近ではない私には、こういう感覚って、「部落差別」に近いものなのだろうかと、思いました。
  そこらへんも、当日は砂澤さんに訊いてみたいところですね。

  こうした差別の深刻さは、「アイヌはお百姓を知らなかった」というセリフにあるように、近代的な生き方を否定して「アイヌの習俗に則って暮らすことにとどまった」人たちと、和人の生活がかけ離れてきていることにひとつの原因があるのかもしれません。
  アイヌの習俗の中で暮らす人たちは、和人からすると、積極的な労働をしない人間のように思われている。漁師仕事にアイヌ人が雇われないことの理由としてそういうセリフも出てきます。
  一方で、やせた火山大地の畑しか持てないという環境の劣悪さも指摘されます。

  つまりアイヌ「差別」をなくすためには、もう、お互い「まじり合っていく」ということを積極的に認めざるを得ないのです。

  いまは浮浪者となったアイヌ研究者は、一太郎にこう言います。
 「みんなまじり合って、広がっていくんだ。このままだと、お前は神の恵みに頼って、滅んでいったアイヌと同じになる」
  それは自らが乗り越えられなかった「差別」を打破するための、唯一の提案なのです。

  最後は、絵描きの卵のヒロインが、恋仲となった一太郎との間に孕んだ子に未来が託されます。
  
  いまから半生記前に作られたこの映画。 
  「差別」を乗り超えるための「近代」というテーマが浮き彫りになってきます。
  いまのアイヌ問題と重なるところ、変わっているところ、それらを砂澤さんにぜひ伺ってみたいと思います。

  いまからならまだ応募間に合いますよ!

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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