ゴー宣DOJO

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切通理作
2010.10.12 15:29

その先の「個人」  基調講演を終えて

       『第7回ゴー宣道場 私から公への経路』。
   基調講演させていただきました。
   ニコニコ動画の公式生中継では7000人、予約では2000人の方が視聴されているとのこと、あとから知って驚きました。
  そんなにたくさんの人に、文章ならともかく、自分の話をまとまって聞いてもらう機会など、生まれて初めてではないかと。
  でも喋っている時には、あくまで当日、骨法道場に集まった皆さんに語りかけていました。その温度が、さらに広い人々に伝わればと思いました。

  僕が、「私から公への経路」という与えられたテーマについて、なんの話をしようかと考えているうちに出てきたことは、以下です。

  「私」と「公」はとてもかけ離れているように自分も思ってきたけれど、それは考え方の問題で、必ずしも対立的に捉えなくてもいいのではないか。
  「公」と思っていない領域で、既にひとは自分のためだけではない日常を送っているのではないか。
  そして実はいまの時代、すでに「私」が「私」で完結するという時代ではなくなっているのではないか。
  そこを掘り起こして、公の言葉の方につなげていく可能性はあるのではないか。
  
  ――ここまでは絞り込むことが出来ました。
  しかしまだ、なにか画龍点睛を欠く 気がしていたのです。
  その足りない部分はなんなのか、わからないまま当日を迎えました。

  僕の基調講演が終わった後に、小林よしのりさんがされた話は、まさにその画龍点睛の部分であるように思えました。
  
  公のために人が一歩出るということは、常に美徳とは限らない。たとえば特攻隊に志願するために自分が一歩前に出るということ。それ自体はひょっとしたら帰属意識ゆえの同調圧力に押されてという場合もあるかもしれない。
  しかし、その後は「個人」の領域なのだ。つまり死ぬのは自分自身なのだから、そこで逃げるのか、まっとうするのかは自分の決断になる。

  そう小林さんは言いました。
  つまり、初めの意志決定の段階だけで判断してしまうのではなく、むしろその先にこそ「個人」が問われるのではないか、と。

  ひとのあり方それ自体を「帰属意識」によるものなのか「個人の判断」によるものなのかに分断してしまっては、見えなくなるものがある。

  なんでも最初から「個人の判断」で自分が選択できるという幻想は、いまの時代、だいぶ崩れています。若者にとって、就職できる場所があれば恵まれているという時代。また地域共同体を大切にするということは、たまたま生まれ育った場所に自分を限定するということでもあるでしょう。

  しかしひとは、ひとつの場所に限定され、同時に自分がなし得ることを見つけた時、個人としてのあり方が問われてくるのではないでしょうか。

  そういう役割を再発見したら、たとえば歴史を後から見ても、その時代その時代に限定された中で生きてきた人たちの営為も、バカに出来ないどころか、おおいに教えを乞える肥沃なフィールドに思えてくるのではないでしょうか。

  掘辺正史師範のおっしゃる、歴史観がなさすぎると公論が育たず、公論とは歴史的主体によってなされるというのは、そういうことなのかもしれないと思いました。
 
  今回の道場でも、公の問題を身近な人との日常から遊離しないようにしていきたいと発言する道場生の方がいらっしゃいました。私はそれを「永遠のテーマなのではないか」と言いましたが、「歴史的主体であるというフィールドに、いかにお互いを立たせるか」ということの道筋が、私にとっても、少し見えてきた気のする第7回ゴー宣道場でした。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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