昭和54年生まれの小学校教師のK君。
私がお手伝いしている研修で、講師を務めた東大名誉教授の口から「日本は無条件降伏していない」という発言を聞いた瞬間、頭がフリーズ状態になって、暫くノートを取ることも、講義内容を頭の中で整理する事も出来なくなったという。
彼にとって余りにも、思いも寄らない指摘だったようだ。
我が国の降伏条件を規定したポツダム宣言を実際に読んでいれば、「無条件降伏」でないことは自明であっても、まず一般の人がこの宣言そのものに目を通すことはないだろうから、「無条件降伏」という誤った通念から解放されるのは、よほど困難らしい。
昭和21年の元旦詔書が、中身も見ないで「天皇の人間宣言」と信じられているのと、共通したものを感じる。
だが、もし我が国が、本当に無条件降伏をしたのであれば、例えばソ連(さらにロシア)による北方領土占拠の不当を訴える、国際法上の根拠を持ち得ないことにもなろう。
同宣言をすでに読んだ人には言うまでもないが、宣言第5項には「吾等の条件は左の如し」云々とあって、以下、第13項まで7項目にわたって、「条件」を列挙している。
その最後に「日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言」するよう「要求」していた。
つまり、無条件降伏は軍隊については、まさにその通り。
だが、日本国政府自体が無条件降伏をしたわけではない。
このことは、アメリカ側史料である「国務省覚書」に「ポツダム宣言は降伏条件を提示した文書」とあることからも、疑念の余地はない。
日本に無条件降伏を求めたカイロ宣言と、「降伏条件を提示した」ポツダム宣言との間には、連合国側の明白な姿勢の変更がある。
その変更を促した重要な要素として、硫黄島や沖縄でのアメリカの予想を遥かに超えた日本側の熾烈な抵抗があったことは、すでに指摘されている。
言わば、それらの勇戦敢闘と貴重な犠牲によって、我が国は無条件降伏を免れたはずなのだ。
しかし、江藤淳氏と本多秋五氏の間に「無条件降伏」をめぐる有名な論争があったのが昭和53年。
論争の勝敗は明らかだった。
その江藤氏の主張が、単行本『忘れたことと忘れさせられたこと』(文藝春秋)に収められて刊行されたのが翌54年、つまりK君が生まれた年だ。
それからすでに30年余の歳月が流れた。にもかかわらず、相も変わらず間違った「無条件降伏」説が一人歩きし、事実を明らかにした江藤氏の主張は、ほとんど「忘れ」去られている。
あるいは「忘れさせられ」ている。
現代日本人の「アメリカのポチ」的な心性の基底に、この「無条件降伏」の思い込みが根を張っていることを、見逃してはならないだろう。