信頼があるから礼節を弁えて、率直に異論を交換出来る。公論は、そのような尊敬と誠意に裏打ちされた、品格のある討議の中から形成される。
以前、道場でそんな発言をした。今回、小林さんが私の発言に誠実に反応してくれたのは、まさにそうした相互の信頼と公論形成への熱意の証として、心から嬉しく感じた(高らかな音が出る拍手を会得されたことも!)。
ただその中で、意見の違いというより事実誤認と思われる箇所があるので、その点だけを指摘しておきたい。
それは「靖国神社は…維持管理が難しくなってきたので…『あさなぎ』を作った」とか、「大人の指導者が…若者たちを募集し、しかも『靖国神社の存続』という目的のために教育までしている」などの「認識」を示された部分。
これは恐らく多くの人たちが共有するイメージだろう。
だから一層、触れておく必要があると考えた。
「あさなぎ」の設立の実際の経緯を知る立場から言えば、この会はあくまで、初めごく少数の若者たちが自発的に自分たちの勉強の場を持ちたいと神社に働きかけ、神社がそれを受け入れて始まったもの。
神社が「作った」組織ではないし、大人の指導者が「募集し」たのでもなかった。設立後も、彼らの活動内容は、年1回の総会と定例の理事会で、自ら審議、決定している。
勉強会で何をやるかも当然、自分たちで話し合って決めている。
当初は、自分たちで各自と接点のある祭神を探し、調べて発表する事で、靖国神社との具体的な繋がりに改めて気付く機会とするーーそんな内容だった。
最近は、時間的な制約を自覚して、専ら戦争体験者の話を拝聴している。少なくとも私の知る限り、「あさなぎ」については、大人の指導者が「靖国神社の存続」という目的のために「教育までしている」という事実は、ない。
そんな細かいことはどうでもよい、と感じられる人も多いだろうが、「あさなぎ」はあくまで、若者たちの自発性に支えられた集まりである事を、知ってほしい。私は崇敬奉賛会そのもの及び青年部の顧問として、彼らから相談を受けたら、一緒に考える立場に過ぎない。
彼らの熱意を身近に知る者として、一言させて頂いた(まさか「自発的」で「熱意」があれば何でも「運動」と短絡する人はいないだろうから)。
なお明治神宮など、崇敬会を「人為的」に作っている神社は少なくない。
それらも「運動体」と見てしまうのか、やはり靖国神社だけは別に見えてしまうのか。
このあたりは、それぞれ意見が分かれるところだろう。
だが、この種の意見の違いが、そのまま相互不信や感情の対立に繋がるなんてことは、道場の中では考えられない。
小林さんが提起された「公論」を作る「修身」の聖域に馳せ参じた1人として、それだけは自信を持って断言出来る。