今日は、
よしりん先生の登場です
高森先生のブログ、
「『あさなぎ』への誤解」を読んでの
返答です
「SAPIO」で
高森氏が靖国参拝の
わしの作法のなってなさを
叱ったことを描きました。
わしは「形式主義」を無条件に
受け入れられる人間ではない
ということも描きました。
堀辺師範がこれを読んだらしく、
大笑いで「よくわかる」と話していました。
昨日は一水会の木村三浩氏と会ってましたが、
彼もその箇所にやたら反応していて、
形式主義を受け入れられない
わしに対して共感を持ったようです。
ただ、
「高森氏とうまくいってないんじゃないか」
という懸念も持ったようで、
その点は全く違うと
公式にも表明しておきます。
今週は、
奈良と伊勢に取材に行っていたのですが、
古代の天皇や皇后の墓、伊勢神宮では、
高森氏の助言通りの作法を実践し、
相当高らかな音を出せる拍手を
会得してきました
しかし五十鈴川の水で
口をゆすがなかったことを
ここに告白します
上流の方で猿がしょんべんしてたら
寄生虫が入ると思って・・・
また叱られるだろうなあ・・・
わしは「仲間意識」を大切にしますが、
仲間うちで思想的な疑問に
蓋をしてしまうようなことが
できない性質なのです。
その点は、
高森氏は理解してくれてるから
心配ありません。
「つくる会」のときから
わしの性質はよく見ているでしょうから。
さて、
この道場ブログで先日、
高森氏が
「『あさなぎ』は運動体ではない」
と主張されました。
「氏子」のようなものだと
説明しています。
わしはすぐ疑問が浮かぶのです
「氏子」は村落共同体の「氏神」を守る
地元の者たちのことですよね?
「あさなぎ」は
靖国神社周辺で生まれ育った
若者たちで構成される青年団ですか?
靖国神社が氏神であり、
国民が氏子だと想定する考え方は
ありだと思いますが、
靖国神社の維持を目的として
最近作られた組織を
「氏子」だから「運動」ではないと言われると、
わしは少し引っ掛かりがあるのです。
靖国神社はこれまで、
戦友会や英霊の遺族によって
支えられてきたはずですが、
高齢化によって維持管理が難しくなってきたので、
崇敬奉賛会やその青年部の
「あさなぎ」を作ったのだと、
わしは認識しています。
最近、人為的に作られた組織でしょう。
元から自然発生的に
境内の掃除やお茶配りなどのボランティアが
発生してきたのではないのでは?
わしも、靖国神社は
「国家」の本質に関わる存在だと思っているから、
この崇敬奉賛会の会員として
会費を納めています。
本来は国家が神道のままに守らねばならないのに、
政教分離を原理主義的に適用して、
民間に任せっぱなしになっていることが
問題なのです。
「あさなぎ」は、
靖国神社の周辺の住民からではなく、
大人の指導者が
遠く離れた地域の若者たちを募集し、
しかも「靖国神社の存続」という目的のために
教育までしているようです。
もちろんこれも悪くはないのですよ。
国立追悼施設だの、A級戦犯分祀だの、
靖国神社を換骨奪胎しようという
政治勢力がある以上、
これに対抗する政治的意味も孕んだ組織であり、
「運動」だとわしは理解しています。
沖縄では、
「ひめゆり記念館」の語り部が高齢化してきて、
このままでは次世代に
戦争の悲惨さを伝えられなくなると、
若者たちが語り部の戦争体験を
伝承しようとしています。
その若者たちはもちろん反戦平和をベースに、
見てきたように話すのでしょうが、
わしには「運動」にしか見えません。
「あさなぎ」に参加する若者、
「遺骨収集」に参加する若者、
「ひめゆり語り部の伝承」に参加する若者、
これらの差は何なのでしょうか?
右の組織は立派で、
左の組織は不純だと言えますか?
ひょっとして全部
「純粋まっすぐ君」ではないかという疑念くらい、
『ゴー宣』の読者なら
すぐ思い浮かべるのではないでしょうか?
『ゴー宣』の読者をなめてはいけません。
相当頭がいい者がいますよ。
わしは
「運動=悪」だとは言っていません。
高森さんの「あさなぎ」や、
笹さんの「遺骨収集」が
「運動」であっても全然構わないし、
「行動する保守」のように、
仲間うちにしか届かない言葉に安住することなく、
外に開く言葉を発し続ける態度が維持されるならば、
明確に支持を表明します。
わしは「運動」だろうと、
「ボランティア」だろうと、
何か立派なことを、
善意と正義でやっていると信じ込んでいる
自己愛集団が嫌いなのです。
『ゴー宣道場』の立ち上げのとき、
あの道場内で「運動」の勧誘をしている者がいる、
さらに「行動する保守」に参加している者もいると、
報告を受けました。
堀辺師範が
これでは「運動の草刈り場」になってしまう、
内部分裂のきっかけになると
随分心配なさっていました。
この問題は色々考えたのですが、
最終的には、
『ゴー宣道場』の参加者を信頼しよう、
組織防衛よりもユーモアと遊びのある、
そして形式主義ではない
礼(マナー)のある寄り合いにしよう
と、結論を出しました。
高森さんも、笹さんも、
自分の運動体を率いている。
それは構わない。
その運動の担い手として
発言してもらっても構わない。
その運動の中で得た知識や体験も、
『ゴー宣道場』の「公論」形成のために、
きっと役に立つと思う。
わしが「薬害エイズ運動」や、
「教科書運動」で得た体験が、
その後のわしの思想や作品づくりに
大いに役立っているように。
ただ、
これだけは言っておかねばなりません。
ここは「公論」を作る聖域です。
思想を深めていく場です。
「身を修め、現場で戦う覚悟をつくる、公論の場」
このモットーをよく吟味して、
さらに宮城教授が作った「道場の心得」も
参加者は熟読してほしい。
どうしても具体的な運動でしか
守れないものもあると思いますが、
この『ゴー宣道場』は
「公論」こそが世の中を変えると
信じられる人々が参加しているのです。
常に現時点の自分の考えに
揺さぶりをかけられることを快感だと思い、
覚悟してやってくる参加者が
わしの望みです。