皆様、こんにちは!のイノシシ娘(猪突猛進)のランランと申します。
ふと八路軍での祖母の思い出話を整理した際、
祖母がドンパチと八路軍で戦ったさいに、部隊で歌と踊りをしていたというエピソードを思い出し、大陸にいても日本の兵士魂を持っていた話と八路軍の音楽についてご紹介したく失礼致します。
祖母は大陸で日本に帰還出来ず、国民党と八路軍(共産党)の兵募集に目をつけ、八路軍に入りました。祖母は八路軍の劉少奇が率いてた外人部隊に所属したと思われ、そこで暴れ、いえ、華麗に舞うように、時には敵に手榴弾(火炎瓶)を投げたり、薬品の扱いをその場で覚えの荒い治療、負傷兵や怖じ気ついた兵士を叱咤激励したりと活躍したそうです。
その中で、私が聞いた記憶に残っている話で、祖母は小さい頃から歌が好きでよくドンパチしてる間にも歌っていたとありました。外人部隊にはアジア系、ロシア系など色々外人達がいたそうで、戦場の小休止の時や休戦時では夜間は焚き火を焚いた前で、個々の郷土の歌を歌っていたり、楽器を奏でたりしたとあります。祖母はそこで即興で「ありがとう、謝謝妳(シェイシェイニ)!すみません、对不起♪(ドゥイブチ)!」と歌い、ひらひらの布を持ちながら踊ったそうです。祖父は当時高級品であったヴァイオリン弾いたり、物資不足になったさいは恐らくヴァイオリンを質に出したりした後はハーモニカを吹いたりしてたそうです。
戦場での憩いの一時では祖父母とも歌と踊り、音楽で癒したとあります。また、当時の八路軍は勇ましい歌や曲が多くあり、今の中国の国歌「義勇軍行進曲」も当時内戦前に田漢(でんかん)氏と聶耳(じょう じ、又はニエ アル)氏が作詞作曲したものです。ちなみに田漢氏と聶耳氏は共に日本に留学し、日本文化を学び、後に八路軍に入り、文化革命時に迫害を受けたそうです。田漢氏は京劇の『白蛇伝』などの脚本や芸能音楽に力を入れていましたが、文化革命時に日本の思想がある!という事で投獄され、聶耳氏は日本に亡命し、八路軍の思想改造受けながらも獄中死をした田漢氏の歌詞と曲を完成させ、日本の神奈川の藤沢市の海で泳いでる最中に亡くなったとあります。
「義勇軍行進曲」は日本の軍歌っぽさがちょっとあるなと思っていたので、日本にも縁があったんだなと感じました。
話を祖母に戻すと、祖母は亡くなるまで口ずさんでいた歌に、「さらばラバウルよ♪また来るまでは〜」のフレーズがありました。調べるとラバウル小唄らしく、ラバウル小唄は日本の戦時歌謡の一つであり、ラバウル等の南方から撤退する兵士たちによって好んで歌われて広められた歌だそうで、祖母は戦後に日本に帰国したさい、聞いて気に入ったそうです。(何でも文化革命が終わり、60代辺りで始めての新婚旅行で日本に帰ったそうです。)
祖母は最期の地を日本にしたかったそうですが、戦後の日本に馴染めず、八路軍の戦士として、戦友達と戦った地でもある大陸で最期を迎えました。ただ、心は日本にあると言うふうに、ラバウルや異国で生涯を終えた兵士達と同じく、日本に恋焦がれた想いでラバウル小唄を歌っていたと感じました。また、田漢氏や聶耳氏が音楽や文化を通じて祖国の為に力を尽くしたエピソードからも、文化や芸能、音楽は切っても切れないものだと改めて学びました。
この話、皆さまの御役に立てれば幸いです。
如何でしょうか。
戦場の小休止での歌と踊りの場面って、何だか映画のワンシーンのようですね。
それにしても、最期の地を日本にしたかったが、戦後の日本に馴染めずに大陸で生涯を終えたお祖母様の心境はいかばかりだったでしょう。
確かに戦後の日本は「ラバウル小唄」を愛唱するような社会ではなかったわけですが、その、もうなくなった日本に思いを残しながら亡くなったとしたら、実に切ないです。
また、祖国の発展に役立てるため日本に学んだはずの田漢氏や聶耳氏が、祖国から残酷に捨てられてしまったことなど、この時代にはもっと語られるべき話がまだまだ埋もれているのだと、強く感じます。