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大須賀淳
2025.1.18 08:33その他ニュース

「国民統合」と「個の連帯」

天皇という存在の位置付けを表す言葉である「国民統合の象徴」。

 

この「国民統合」は、「個の連帯」と同義であると私は捉えています。

 

「国民」を、単なる国籍保持者という事務的な意味でなく「それぞれの現場・役割を担い、関係性の中で生きる者」と捉えれば、強固〜ゆるやかまでの度合いはあれど、それらの連帯によって成り立っているのが国家であり、さらに歴史から未来まで時間軸への思慮を含んだものが「」です。

 

各種メディアやSNSも、人間によって営まれる以上、本来的には公に連なる一部なのですが、実際には私情の焚き付けや慰撫、および剥き出しの私情そのものとなっているのが実状と言えるでしょう。

 

「私の集合」は、どれだけ膨らんでも「集合した私」でしかなく、価値を生んだり、何かに昇華する事はありません。

 

男尊女卑を含む差別感情や、敗者のルサンチマンといったマイナスの感情は、自分も含め全ての「私」の中に存在すると思います。

 

しかし、それをいくら膨張させても、何も生まないばかりか「それぞれの現場・役割を担い、関係性の中で生きる」力を弱体化させる事にしかなりません。

 

それを感覚的に理解し、バランスをとりながら生活するのが「庶民」であり、また本質的な意味での「保守」なのでしょう。

 

主権を有している国民とは「個」であるはずですが、その「権(の)力」を委託する者の選挙は、どんどん「私の扇動」に類する手法によってハッキングされてしまう。

 

これが進むと、国会も限りなく「私の集合」に近くなってしまい、駄洒落チックですが「集議院」とでも表すのが適当な存在になってしまうでしょう。

 

皇位継承問題においては、国民から権力を委託された国会議員一人一人が、いかに個(それは、投票者の個にもつながる)を発揮したスタンスをとれるかがシビアに問われます。

 

議員として個の連帯の代表者として動けるか?それとも、ただの頭数である「〝集〟議院議員」というニセモノである事が露呈してしまうのか?

 

今年は、それが赤裸々に暴かれる年になる予感がします!

大須賀淳

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