昭和24年5月27日、昭和天皇は全国巡幸の一環として
長崎を訪れられた(鈴木正男氏『昭和天皇の御巡幸』)。原爆で妻を喪い、自分も被爆による重症を顧みず、
懸命に被爆者の治療を続けて遂に斃れ、
死の床にあった永井隆博士を、長崎医科大学付属病院に
お見舞いにて親しくなられた。
カトリック信者だった永井博士は、
この日のことを和歌に詠んだ。天皇は 神にまさねば わたくしに
病(やまい)いやせ(癒せ)と ぢかに(直に)のたまふ(宣う)クリスチャンらしく、天皇を「神にまさねば」と
詠みつつも、昭和天皇から直接お声を掛けられた
光栄と感激が、率直に表現されている。昭和天皇が占領下に続けておられる
全国巡幸についても次のように述懐した。「天皇陛下は巡礼ですね。
洋服をお召しになっていましても、大勢のおともがいても、
陛下の御心は、わらじばきの巡礼、
1人寂しいお姿の巡礼だと思いました」その後、昭和天皇は浦上球場に設けられた
市民奉迎場に向かわれた。
5万人の大群衆がグランドを埋め尽くしていた。
「君が代」の大合唱が終わると、
昭和天皇は1枚の紙片を広げて、広島市に続き、
異例のおことばを賜った。「長崎市民諸君、本日は長崎市復興の状況を見聞し、
また、市民の元気な姿に接することができて
うれしく思ひます。
長崎市民が受けた犠牲は同情にたへないが、
われわれはこれを平和日本建設の礎として、
世界の平和と文明のために努力しなければならぬと思ひます」スピーカーから流れる力強いおことばが終わると、
一斉に万歳の発声が始まった。
人々は涙に濡れて日の丸の小旗を打ち振り、
天皇もそれにお応えになって、お帽子を取られ、
それを何度も何度も高く振られたという。昭和46年4月16日、昭和天皇は前日に
島根県での全国植樹祭へのご臨席を済まされ、
広島にお移りの上、初めて原爆慰霊碑
(広島平和都市記念碑、原爆死没者慰霊碑)前にて
黙禱をされ、生花を供えられた。その時のご感想を次ように述べておられる。
「原爆慰霊碑の前に立って、
いまさらながら昔のことを思い出して胸が痛い。
いまなお療養を続けている多くの人々のことを思い、
まことに気の毒にたえない。
苦しいことが多いと思うが、元気に、
1日も早く回復してもらいたい。それにしても、昭和22年12月、
原爆被爆直後の様子を思い出し、当時と比較して、
よくこれまでに復興したものである。
これも県民の勤勉と努力のたまものである」
(『昭和天皇実録』第15巻)(続く)
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