「光る君へ」と読む「源氏物語」
第17回 第十七帖<絵合 えあわせ>
「光る君へ」第25回は、越前和紙を梳く工程と、2000張(ちょう 紙を数える単位 枚)を租税として納めるところ、2300張が収められていたことを問い質す為時(岸谷五朗さん)の清廉さが描かれていました。「国司の旨味を味わい尽くした」宣孝(佐々木蔵之介さん)のしたたかさとは真逆の為時は義の人と言えそうですが、余分の300張を返そうとして迷惑がられていたのは、賄賂が横行していたということでしょう。
紙好きとしては、不謹慎ながらワクワクする場面で、まひろは、道長(柄本佑さん)と石山寺で再会した際に「越前には美しい紙があります。私もいつか、あんな美しい紙に、歌や物語を書いてみたいです」と語っており、第31回で、まひろに物語を書くことを依頼した道長は、大量の越前和紙を届けていました。
宙に浮いてしまった300張の越前和紙には、まひろが女房を辞した後に「源氏物語」の続き、「宇治十帖」あたりが描かれるのではないかしらと、今は想像しています。
今回は、美しい紙に描かれる物語や絵についてみてみましょう。
第十七帖 <絵合・えあわせ (左右に別れ優劣を競う遊び「物合(ものあわせ)」の一つ。絵を比べ合わせて競う)>
藤壷の尼宮は亡き六条御息所の娘・前斎宮の入内を促し、光る君は朱雀院に遠慮して二条の邸に前斎宮を移すことは思い止まりつつ、親のように取り仕切って世話をしています。朱雀院は、がっかりしながらも入内の日には、素晴らしい衣や、御櫛の筥(みぐしのはこ 櫛など髪を結う道具を入れる箱)、薫物(たきもの 香の材料を調合し蜜などで練り合わせた練香)などを調えて贈りました。
朱雀院の有り様は、女性にして見ていたいほど美しく、22歳の前斎宮とも良い組み合わせなのですが、13歳の帝はまだ幼く、光る君は前斎宮が快く思っていないのではないかと案じています。藤壺から「立派な方が入内されるので、心遣いをしてお会いするように」と伝えられていたので、帝は人知れず気おくれしていました。夜が更けてから参内した前斎宮は慎ましく、おっとりとして、小柄で華奢な様子なので、帝はとても愛らしい人だと思うのでした。
権中納言(元の頭中将)の娘・弘徽殿の女御と、梅壺を賜った斎宮の女御への宿直(夜に泊ること)を、帝は等しく行いつつ、昼は馴染みの弘徽殿の方に渡り(行き)がちでした。権中納言は、弘徽殿の女御を中宮にしたいと思っていたところに、前斎宮が入内して競うようになったので、心中穏やかではありません。二人の女御が仕えているので割り込む隙間がないのですが、紫の上の父・兵部卿宮も娘を入内させようとしています。
*梅壺(うめつぼ 後宮の殿舎の一つ凝花舎・ぎょうかしゃのこと。庭に梅が植えられていたので梅壺ともいう。藤原詮子が賜っていた殿舎)
帝は、なにより絵に興味を持っていて、自分でも上手に描いています。梅壺の斎宮の女御も絵が上手なので、帝は心移りして一緒に絵を描き合うようになりました。権中納言は負けん気を起こして、絵の名人を集め見事な絵を上質な紙に描かせます。「物語絵(ものがたりえ 物語に絵をそえたり、趣のある場面を絵にしたもの)こそ、見どころがある」と面白い物語を描かせたり、月毎の行事の絵に詞書(ことばがき 説明文)を書いたりしていますが、簡単には出さず秘密めかして、帝が梅壺の方に絵を持って行こうとすると惜しんで渡そうとしません。
光る君は「絵を隠して帝にお見せしないとは不届きなこと。古代の絵がございますので、献上しましょう」と伝えます。二条の邸で絵の入った厨子(ずし 両開き扉の付いた戸棚)を開けて、相応しい絵を選りすぐるなかで、光る君は須磨や明石で描いていた絵日記を紫の上に見せました。須磨や明石の浦の有り様がよく描けているものを選びつつ、光る君は明石の家のことを思うのでした。
三月十日頃は、空も晴れて、人の心も穏やかで、宮中の行事もないことから、お妃たちは絵を楽しんだりして過ごしていました。梅壺の斎宮の女御は、昔の物語で名高く風情あるものを集め、弘徽殿の女御は、目新しく面白い物語を選んで描かせ、帝付きの女房たちで絵のたしなみのある者は、あれこれ論じ合っています。
藤壷の尼君は、教養のある女房たちのうち、左は梅壺の方、右は弘徽殿の方と分けて、思い思いに論争するのを興味深く聞き、まずは物語の始祖といわれる『竹取の翁の物語(竹取物語)』に『宇津保物語』の「俊陰」の巻を合わせて勝負させました。
*『宇津保物語』…うつほものがたり 遣唐使・清原俊陰が難破しペルシアに漂着、仙人から琴を習い、阿修羅から秘琴を得て帰国し娘に伝授する。俊陰の死後、娘は荒れ果てた邸で太政大臣の子・藤原兼雅と関係し、子を宿すが引き離され、生れた子・仲忠への琴の伝授を、山の杉の木の「うつほ(四本の木が上で重なり合い、下が空洞になっているところ)」で行う。その後、俊陰の娘と仲忠は兼雅と再会し、京に迎えられる。
梅壺の左方は「かぐや姫がこの世の濁りにも穢れず、はるかな天に上った宿縁(前世からの因縁)が素晴らしく、現世の思慮の足りない女性は、見ても分からないでしょう」などと言います。弘徽殿の右方は「かぐや姫が天に上ったのは、実際にはできないので誰にも知りようがないですが、この世の宿縁は竹の中に結ばれているので、身分は賤しく、身内から生じる光は一つの家を照らしても、宮中の帝のご威光に后として並ぶことはできませんでした」などと応じます。
『竹取の翁の物語』の絵は巨勢相覧(こせのおうみ 平安中期の宮廷絵師)、書は紀貫之(きのつらゆき 仮名で書かれた日本最古の日記文学『土佐日記』の作者)、紙屋紙(朝廷で用いる紙の製造を扱う紙屋院の紙)に唐の絹織物を裏打ちし、赤紫の表紙に紫檀の軸と、ありふれています。
さらに右方は「『宇津保物語』の俊陰は激しい波風に溺れ、知らぬ国に漂着しても、当初の目的を果たして、他国でも我が国でも音楽の才を知られ、名を残しました。絵も唐土と日の本を取り合わせて面白く、並ぶものはありません」と言い続けます。白い色紙に青い表紙、軸は黄色の玉(美しく価値のある石の類)、絵は飛鳥部常則(あすかべのつねのり 平安中期の宮廷絵師)、書は小野東風(おののみちかぜ 能書家 三蹟の一人)と、目新しく輝いて見えます。左方は、反論ができません。
次に『伊勢物語』に『正三位物語(しょうさんみものがたり 散逸して今は内容が分からない物語)』を合わせて争わせた際は、梅壺の左方が推す『伊勢物語』に藤壺が助け舟を出すなどして、なかなか勝負が定まりません。
光る君は絵合を面白く思い、日を改めて帝の前で勝負を定めることを提案し、須磨と明石の絵を、梅壺の左方に加えました。権中納言は隠し部屋で絵を描かせていて、面白い紙絵(屏風、衝立、巻物などの形のものに描いた絵に対し、一枚の紙に描いた小品の絵)を集めるのが世間の流行りとなっています。
朱雀院は梅壺の女御に、昔の名人が描いた節会(宮中行事)の絵に延喜の帝(醍醐天皇)が自ら主旨を書き込んだものや、自身の御代を描かせたなかで、斎宮が伊勢に下る際の儀式の絵に歌を書いたものを贈ります。
身こそかく 標(しめ)のほかなれ そのかみの 心のうちを 忘れしもせず 朱雀院
わが身はこうして 宮中の外にいるけれど その昔 あなたを想った心の内を 忘れはしません
梅壺の女御は、あの儀式で挿した櫛の端を少し折り、縹(はなだ 薄い藍色)の唐の紙に包んで返歌します。
しめのうちは 昔にあらぬ ここちして 神代のことも 今ぞかなしき 梅壺の女御
宮中は 昔とは変わってしまった心地がして 伊勢で神に仕えていたことも 今は恋しく想うのです
弘徽殿の女御の方は、弘徽殿の大后や朧月夜の尚侍の姪にあたるので、二人からも絵が集まっているようです。
帝の前での絵合の日が決まり、殿上人も後涼殿(こうろうでん 内裏の殿舎の一つ)の簀子(すのこ 寝殿造の濡れ縁)で、心寄せる方へ座っています。光る君の弟・帥の宮(そちのみや 大宰府の長官・帥である親王 現地には赴任しないことが慣例)が勝負の審判となりましたが、素晴らしく描き尽くされた絵が集まっていて、判定がつかないまま夜になりました。
最後になって、左方から須磨の絵が出てきたので、権中納言は動揺します。光る君が思いを篭めて心静かに描いた絵は、例えようもなく見事で、帥の宮をはじめ皆が涙を止めることができません。光る君の須磨での暮らしや、心情が目の前に現れたようで、浦や磯の有り様も余すところなく描かれています。絵合は、左方の勝ちとなり、光る君は、須磨の絵を藤壺の尼君に贈りました。
光る君は、しかるべき節会なども「この御代から始まった」と後の人が語り継ぐような例を加えようとして、このような遊びごとにも趣向を凝らしたので、帝の御代は、たいそう栄えています。それでも光る君は、世の中を無常なものとして、もう少し帝が大人になったのを見てから出家しようと御堂を造らせているのでした。
***
亡き六条御息所の娘(伊勢の斎宮=前斎宮=梅壺の女御)が22歳で入内し、朱雀院の恋が破れました。「女性にして見ていたい」ほど美しい大人の朱雀院ではなく、9歳年下の冷泉帝に入内するのは、道長の正妻・倫子の産んだ娘・威子が、9歳年下の後一条天皇(1008-1036年 中宮彰子の産んだ一条天皇の第二皇子)に入内した史実を思わせます。
「光る君へ」第27回は、道長の娘・彰子が入内する際の調度品として、公卿たちが結婚を寿ぐ和歌を詠み、行成の文字で書いた色紙を、屏風に美しく配して貼るという屏風歌の趣向が描かれました。
「源氏物語」で、光る君が須磨や明石で描いたり、権中納言が名人たちに描かせりした絵には、和歌や詞書が書き付けられ、女御の後宮での威勢を後押しする役目を担っているのは、道長が作らせた屏風歌に通うように思います。さらに「絵合」で弘徽殿の右方が推した『宇津保物語』の絵を描いた飛鳥部常則(あすかべのつねのり)は、彰子の為に用意された屏風絵の絵師でもあり、書は小野東風(おののみちかぜ)で、屏風絵の書を担当した藤原行成と並ぶ三蹟というところも共通しています。
先に入内した弘徽殿の女御の父であり、藤原氏と思しき権中納言が、後から入内した梅壺の女御の後見をする光る君に張り合うのは、「光る君へ」で、一条天皇に先に入内していた定子の兄・伊周が、随筆の起源であり、当時は「目新しく輝いて」見えたはずの「枕草子」を広める様子が髣髴とします。
「絵合」で、「目新しく輝いて」いた権中納言の用意した絵ではなく、「光る君が思いを篭めて心静かに描いた絵」が勝利するのは、後から入内した彰子に「華やかな艶」を添えるため、「枕草子」に対抗して描かれた側面もある「源氏物語」への紫式部の自負が垣間見えるようです。
光る君の生母・桐壺の更衣も後から入内して、桐壺帝に寵愛されますが、後ろ楯が無く、当時の弘徽殿の女御(弘徽殿の大后)はじめ宮中の女性から苛められて心身が弱り、亡くなっています。
梅壺の女御は、両親(父は東宮、母・六条御息所)を亡くしていますが、光る君と藤壺という後ろ楯があり、後から入内していても、苛められている様子はありません。光る君は朱雀院に遠慮しながらも、後見をすることで、新旧の弘徽殿の女御に対抗し、母のリベンジを果たしているといえるかもしれません。
光る君が後の人が語り継ぐよう趣向を凝らして帝の御代が栄えるところは、愛子さまの御代が思い浮かびます。類まれなる絵と言葉によって愛子さまの御代に至るまでの歴史が描き込まれ、後世の人々が語り継いでゆく『愛子天皇論』。いま「全部だきしめて」もらえた方は、歴史に佳き一頁を刻めますね。
【バックナンバー】
第1回 第一帖<桐壺 きりつぼ>
第2回 第二帖<帚木 ははきぎ>
第3回 第三帖<空蝉 うつせみ>
第4回 第四帖<夕顔 ゆうがお>
第5回 第五帖<若紫 わかむらさき>
第6回 第六帖<末摘花 すえつむはな>
第7回 第七帖<紅葉賀 もみじのが>
第8回 第八帖<花宴 はなのえん>
第9回 第九帖<葵 あおい>
第10回 第十帖 < 賢木 さかき >
第11回 第十一帖<花散里 はなちるさと>
第12回 第十二帖<須磨 すま>
第13回 第十三帖<明石 あかし>
第14回 第十四帖<澪標 みおつくし>
第15回 第十五帖<蓬生・よもぎう>
第16回 第十六帖<関屋 せきや>
先日NHK・Eテレでやってた『光る君へ』の関連番組で、平安時代に紙と毛筆の品質が飛躍的に向上、普及し、それは現代にスマホが登場したのにも匹敵するような社会の変革をもたらして、「源氏物語」などを生む背景にもなったというようなことを言っていました。
スマホの登場がそんなにいいことだったのかどうかはわかりませんが、この時代に紙と毛筆が発達したことは本当にありがたいことなのだと、それで意識しました。
しかも、そうして紫式部が「源氏物語」を書いた時点で、日本にはすでに「竹取物語」を初めとして「宇津保物語」や「伊勢物語」などの物語や、詩歌などの文芸の蓄積があったのだと思うと、これはとてつもなくすごいことだと思うしかありません。
果たして次回はどんな気付きをもたらしてくれるでしょうか?
どうぞお楽しみに!