「現代ビジネス」に、ジャーナリストの大木賢一氏による、天皇陛下訪英時のスピーチについての考察を軸とした記事が掲載されています。
先日このブログでご紹介した矢部万紀子氏と同じく、大木氏も陛下のお言葉としっかり向き合い、そこに込められた心に思いを馳せています。
今回、歴代の天皇として初めて英語で行われた晩餐会のスピーチを日本語訳とつぶさに比較し
「いかばかり」という日本語が、昭和天皇と上皇さまの思いの「量」を問題にしているのに対し、英語の方は、「質」に思いを馳せている。心の中に何かがあったのは確実で、それが何だったのかということに、陛下が思いを馳せているように読める。昭和天皇と上皇さまの心のうちを、より強く想像させる。
日本語でも、他言語でも、自らの意思で思いを尽くすのならば、それでよいのではないか。招いてくれた国の人々にできる限りの真心を伝えるために、日本語以外の言語を使うことは、前向きにとらえるべきだと思い直した。
といった考察につなげた部分には、思わず「なるほど!」と声をあげそうに。
訪問や行事の回数、順番などを小姑的につっついて嫌味を言う事に終始する八幡和郎の文などと比較すると、評論としての質が月とスッポン(いや、美味しいのにスッポンが気の毒!)です。
そして、この記事で一番感嘆したのが、終盤の次の部分。
(オックスフォード訪問や、チャールズ国王との旧交を温めた事について)
天皇と国王という公の立場に照らし、こうしたふるまいが「私重視」であるとして好ましくないと思う人もいるだろう。だが私は、「個」としての陛下を英国側がそのまま受けとめ、繊細な心遣いで友人として扱ってくれたことに、まるで自分がもてなされたかのような嬉しさを感じた。
個人と個人の親交が、国同士の関係と友好を象徴する。その親交を見た両国民が互いのもてなしに胸打たれ、互いを敬愛する。そのようなことが実現するならば、それこそが、象徴としての天皇が担う「新しい皇室外交」なのではないだろうか。
「無私の存在」であり、同時に日本の「公」を体現する天皇陛下が、「個」として主体的に外国と親交する事が、国同士の友好を「象徴」し、国民にも大木氏が綴っているような「両陛下を、家族のように、友人のようにもてなしてくれた英国に、日本人としてお礼を言いたい」気持ちさえ沸き起こってくる。
この上なく素晴らしい構図に、今上陛下の御世に日本人として生きられる事の喜びを感じずにはいられません。
もう同じような事を何度書いたかわかりませんが、メディアは私的なルサンチマンに溢れた小姑的な皇室バッシング記事ではなく、こうした分析力、知識、筆力、そして皇室への想いを持った人の記事を、積極的に掲載して欲しいと心底望みます。