「茶魔語」は言うに及ばず、初連載の「東大一直線」以降のあらゆる作品内や、直近の「枯レルヤ」「おフランス斬首!」まで含め、よしりん先生が持つ既存の言葉をもじって絶妙なニュアンスを表現するセンスには、これまで何度驚嘆させられたかわかりません。
そんな珠玉のもじり言葉の中でも、個人的に気に入っているものの一つが、初代ゴー宣の第83章(4巻収録)に出てきた「ジェラシッ子パーク」です。
ネタ元である映画のジュラシック・パークは「過去の生物」である恐竜を蘇らせた事で大混乱が生じますが、世の中にはびこるジェラシッ子は「過去の遺恨」をこじらせたルサンチマンで、世の中を迷走させ公を毀損し、未来を潰すような行いに終始します。
キャンセル・カルチャーは言うに及ばず、皇位継承に男系男子固執を唱える者なども大部分は、私的な不全感、プライドが潰れたショックをこじらせた「ジェラシッ子」であると感じています。
上で引用したゴー宣の話が描かれて30年経ちますが、SNSが行き渡った分だけ、ジェラシッ子の雄叫びはより耳をつんざくように、世間のそこかしこまで響くような状態になってしまいました。
そして最近、頭の中に繰り返し浮かんでいるのが「人権という概念はジェラシーやルサンチマンの正当化に濫用される一方、リベラリズムが持つイメージとしての「進歩」とはむしろ真逆の存在で、社会の可能性追求を著しく損なっているのではないか?」という思念です。
もう少し別の観点では、人権の「権」は権理通義の事ではなく、他者・他勢力を威圧・制圧するための「権威、権力」の意なのではないか…とも感じてしまいます。
精神力や能力が低くてもプライドが高い人間は「ジェラシッ子」となり、チープな全能感をもとめてノイジーマイノリティ化して公を踏み荒らしているのが今の状況。そうした輩には「ぶっ潰したる!」という怒りがわきつつ、社会としてはそうした「迷子」たちを着地させる、安定した足場となる価値の構築も行わなくてはならない。
ジェラシッ子という存在にはとても冷めた視線を送りつつ、そうした者たちの着地場所もちゃんとある価値と、それが結実した社会を作る事にあらゆる労力を惜しまずにやっていかねば、とも考えています。
個人的所感を言うと、例え自己の中にジェラシーが生じても、ルサンチマン化させずに生産につなげた方が何倍も楽しく、お金にもなり、人からも評価されるというよい事しか無いよ。
ジェラシッ子は、だまされたと思ってやってみると良い。