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2024.7.8 07:00ゴー宣道場

「光る君へ」と読む「源氏物語」 第十帖 < 賢木 さかき >byまいこ

「光る君へ」と読む「源氏物語」
第十帖 < 賢木 さかき(榊 神事に用いる神木 野の宮) byまいこ

 

「光る君へ」は、お酒を飲む場面がよく登場します。筑前守で大宰少弐(だざいのしょうに 大宰府の次官)を兼ねた藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)が任地から戻った際に、為時(岸谷五朗さん)の邸に持参したお酒は、「カッといたしますね。まさに戦の前に己を鼓舞する酒でございますね」とまひろが驚くほど、アルコール度数の高い清酒。為時が越前に赴任し、宋人に招かれた宴で供されたお酒も、透き通っていました。

一方、「皇子を産め!」という鬼気迫る台詞で視聴者を震撼させた藤原道隆(井浦新さん)が亡くなるまで飲み続けていたのは、白濁したお酒。清酒が一般的になるのは江戸時代からとのことで、平安時代は糖質が高く、甘い濁り酒がよく飲まれていたよう。道隆も、そして道長も、死因は糖尿病と言われているのは、政権を担ったストレスを解消するためのお酒も一因だったかもしれません。

道隆が亡くなった後、後ろ楯を失った伊周(三浦翔平さん)や定子(高畑充希さん)たちの中関白家は、急速に落ちぶれました。長徳の変(995年)で花山院に矢を射かけたのは、伊周の勘違いからくるミスであると同時に、父・道隆を失い、叔父・道長に政権を取られて自暴自棄になっていたからでしょう。道隆が生きていれば、あの事件は起きていなかった、もしくは起きていたとしても不問に付されたかもしれません。

今回は、父を亡くした後、追い落とされてゆく貴公子の有り様をみてみましょう。

 

第十帖 < 賢木 さかき(榊 神事に用いる神木 ここでは野宮のこと)>  

斎宮が伊勢へ下る日が近づき、潔斎で嵯峨野の野宮(ののみや)へ籠ることになりました。六条御息所は、葵上が亡くなった今、次の正妻になってもおかしくないと噂されていますが、光る君の訪れが絶えてしまったので、諦めて娘の斎宮と共に野宮に籠り、伊勢に下る決心を固めます。

光る君は、父・桐壺院が病気といえるほどではないにせよ、時々、加減がすぐれないので、何かと心落ち着かない頃でしたが、御息所の気持ちや世間体を考えて、野宮を訪ねました。秋の嵯峨野は、しおれた草原から響く虫の声に松風が吹き合わせ、かすかに何か楽の音が聴こえてきます。風情あるたたずまいに、美しく月が昇ってくるなか、光る君が榊の枝を折って持っていたものを御簾からさし入れたので、御息所は歌を詠みました。

神垣は しるしの杉も なきものを いかにまがへて 折れる榊ぞ 六条御息所
野宮の神垣は 人を導く印の杉もないのに どう間違えて榊を折り ここへ来られたのでしょう

いつでも逢えると思っていた御息所に、難点があると分かってしまった光る君は気持ちが冷めていましたが、趣ある野宮で久しぶりに対面して昔の想いが蘇り、二人は逢瀬を遂げたのでした。光る君は、御息所の旅の装束から、女房たちを含めた人々の調度品まで用意して贈ります。

いよいよ伊勢へ出発する儀式のため、御息所は娘の斎宮と宮中へ参内します。光る君は、体裁が悪いので参内はしませんが、幼いときに斎宮を見ておかなかったのを残念に思います。朱雀帝は、14歳の美しい斎宮を見て心動かされ、別れの御櫛(斎宮の髪に櫛を差し「京(みやこ)の方(かた)に赴きたもうな」と告げる。斎宮が京に赴くのは御代が替わる時か身内に不幸があった時)を挿しながら、涙するのでした。

桐壺院は加減がさらに悪くなり、見舞いのため行幸した朱雀帝に「光る君を私の在世と変わらず何事にも後見としなさい。年の割には政をするのに何の支障も無く、世を治める相がある。親王にせず臣下にしたのは朝廷の後見とするため。これを違えぬように」などと遺言します。日を変えて行啓した東宮はまだ幼く、藤壺の中宮は涙に沈んでいます。桐壺院は光る君に、朝廷に仕える心構えや東宮の後見について返す返す伝えました。弘徽殿の大后は、藤壺がいるので見舞いを躊躇っているうちに、桐壺院は亡くなってしまいます。

御代替わりをした後も、桐壺院が世を治めて続けていた時は朝政に憂慮はなかったのですが、朱雀帝は若く、祖父の右大臣は短慮なので貴族たちの心配は募り、左大臣も出仕しなくなりました。藤色の喪服を着た光る君は、葵上に続く不幸に無常を感じ、出家も心をよぎりますが、この世のほだしも多く思い切れません。四十九日まで宮中に留まっていた藤壷は兄・兵部卿宮の三条の邸に戻り、光る君は二条の邸に引き籠ります。年が明けて、以前は除目(じもく 任官の儀式)の頃には、任官させてもらおうとする人々で立て込んでいた門のあたりも、車はまばらになって、光る君は寂しく思います。

尚侍(ないしのかみ 内侍司の長官 平安時代には女御・更衣に準じて後宮に入ることもあった)となった朧月夜は、姉の大后のいた弘徽殿に住んで、朱雀帝に寵愛されるようになっていましたが、光る君のことが忘れられず、文を交わしています。桐壺院の喪に服して賀茂の斎院(弘徽殿の女三宮)が下りたため、葵上が亡くなった際に、趣深い文を送った式部卿宮の娘・朝顔の君が賀茂の斎院となりましたが、光る君との音信は途絶えていないようです。

さらに光る君は三条の邸で、またも藤壺と関係を持ってしまいました。あまりのことに藤壺がつれなくすると、光る君は、宮中にも東宮御所にも出仕しなくなり、秋の野を見がてら、亡き母・桐壺の更衣の兄の律師(りっし 僧正、僧都に次ぐ僧官) のいる雲林院(うりんいん)に参篭します。律師の念仏する声を聴き「なぜ自分は出家できないのか」と思うと、まず気にかかる紫の上へ宛てて、光る君は文を書きました。

浅茅生の 露のやどりに君をおきて 四方の嵐ぞ 静心(しずこころ)なき 光る君
浅茅生の露を置くような 儚い世に君をおき 四方の嵐の吹くたびに 私の心は乱れゆく 

風ふけばまづぞみだるる色かはる 浅茅が露にかかるささがに 紫の上
風まかせのあなたに 色あせた浅茅の露にかかる蜘蛛の糸のように すぐ心乱れるわたし

*浅茅生(あさじふ まばらに茅・チガヤの生える荒涼とした場所) *四方(よも 至るところ)*ささがに(蜘蛛 または蜘蛛の糸)

紫の上の文字は本当に上手くなっていて、光る君は「何事につけても、悪くはなく育てたものだ」と思います。

藤壺は光る君との関係に悩み、桐壺院の一周忌の法要に続いて行われた法華八講(ほっけはっこう 法華経全八巻を講説する法会)の際に、髪を下ろし出家を遂げてしまいました。人々は涙にむせび、光る君も驚き悲しみますが、尼となった藤壺からは女房の介在なしで直に声を聴けるようになりました。光る君の想いは消えることはありませんが、今となっては、あるまじきことなのでした。

右大臣一族の専横がはびこり、中宮の御封(みふ 貴族の封録)などが出家にかこつけて変わったりしましたが、藤壺は人知れず悩んでいる東宮誕生の罪が軽くなるよう仏に念じて心慰めています。左大臣は引退し、頭中将も除目で昇進はありませんが、光る君でさえ思うようにならない世の中と納得して、共に学問や音楽にいそしんでいます。

その頃、朧月夜が病気を理由に父・右大臣邸に戻ったので、光る君は危険を冒して毎夜、通っていました。ある夜、雷が鳴り続けて明け方となり、朧月夜のもとに女房たちが怖がってたくさん集まってきたため、光る君は帰るに帰れなくなります。そこへ右大臣もやってきて、朧月夜の衣の裾に男帯がまとわりついているのを発見。几帳の中を覗くと光る君がいるではありませんか。右大臣から事の次第を聞いた弘徽殿の大后は激しく怒り、光る君を追い落とす企てを思い巡らすのでした。

***
「光る君へ」で、詮子(吉田羊さん)が仮病を使い、呪詛されたと装ってまでも事を大きくし、伊周たちを追い落とそうとしていたのは、まさに弘徽殿だなあと感じ入りました。また、定子が自ら髪を下ろす場面は、藤壺が出家を遂げたことと重なり、やはり藤壺には定子が反映されている部分があるように思います。

「賢木」の帖・野宮の別れは、「源氏物語」のなかでも屈指の美しい場面。前回の「葵」の帖・車争いや、物の怪など、六条御息所は、物語を動かず起爆剤のようなドラマチックな女性ですね。

野宮神社は現在も嵯峨野・嵐山にあり、御祭神は天照大御神。秋篠宮妃紀子さまが参拝された後に、佳子さまを授かられたことでも有名な子宝の神社でもあるそう。天照大御神の祀られた神域の逢瀬は非常に大胆。秋の風情と音楽で気分が高まったところでの月光に照らされる女性は、逢えなくなるゆえに、より魅力的に見えたのでしょう。

桐壺院は、「政」について朱雀院と光る君の二人の息子に後事を託して亡くなりました。「病気といえるほどではないにせよ、時々、加減がすぐれない」のは、「光る君へ」で藤原道隆が亡くなる直前まで妻の貴子(板谷由夏さん)と仲睦まじく語らいながら、徐々に症状が悪化していった糖尿病のようです。道隆の死因が糖尿病と言われるほど血糖値が高くなる白濁したお酒を過ごしていたのは、政権を取ってはいても、父・兼家の遺した「政は家の存続」に必要な皇子が誕生していなかったからでしょう。

母や散楽の直秀を殺され「世の中を変える」志を持ったまひろは、「遠くの国へ行こう。藤原を捨てる」という道長の誘いを「二人で京を出ても、世の中は変わらないから、道長様は偉い人になって、直秀のような理不尽な殺され方をする人が出ないような、より良き政をする使命があるのよ」と諫めています。

朝政の場面で、国司(こくし 受領)が勝手に税を課して私服を肥やすのは横暴だという民の上訴を、帝に奏上するか審議した際、道隆が「強く申せば通ると思えば、民はいちいち文句を言うことになりましょう」と却下したのに対し、道長が「民なくば、我々の暮らしもありません」と進言したのは、「より良き政」とは「民と共にある政」と考えたからでしょうか。

「偉い人になって」政権の頂きに立った道長は、疫病の蔓延や天変地異、「長徳の変」をはじめとする意外に荒くれ者の多い平安貴族たちへの対処、宋の商人の真意が侵略かどうか見極めるため為時を越前守にするなど多忙を極めます。侵略の可能性が描かれたのは「長徳の変」の実行犯・矢を射かけて流罪となった隆家が、後に「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」で外国の海賊を撃退する伏線でしょうか。内憂外患が押し寄せる、平安とは無縁の時代に「民と共にある政」が困難を極めたストレスによって、道長も兄・道隆や桐壺帝と同じ状態に至ってゆく様も、今後、描かれるかもしれません。

父が亡くなり、自暴自棄のように女性に入れあげていた伊周は、光る君と重なります。しかも光る君は、御息所の娘の伊勢の斎宮、帝の寵愛を受ける朧月夜、賀茂の斎院となった朝顔の君と、前回、御紹介した「斎宮歴史博物館」で愛子さまが「(恋愛は)斎王はタブーですか?」とお尋ねになられたような、禁忌に触れる領域にいる女性ほど興味を抱くようで、厄介ですね。

それでも、藤壺が出家を遂げた後は、光る君は関係を持とうとはしません。「光る君へ」で定子の言った「私は生きながらに死んだ身である」は、おそらく「源氏物語」を現代語訳した瀬戸内寂聴さんの「出家とは、生きながら死ぬこと」という言葉からで、出家すれば、本来は色欲を断つことに。

現実には、花山院は出家後に女性のところに通って事件のきっかけを作り、定子も髪を下ろした後に一条天皇の皇子と皇女を産んでいます。道長の娘・彰子に仕えた紫式部は、尼となった女性には近づかない光る君を描き、一条天皇に示唆したのでしょうか。

光る君と関係を持った女性の出家・第一号の藤壺。これから続々と、出家する女性が現れます。出家後の女性の変化に御着目されても面白いと思います。

 

【バックナンバー】
第1回 第一帖<桐壺 きりつぼ>

第2回 第二帖<帚木 ははきぎ>
第3回 第三帖<空蝉 うつせみ>
第4回 第四帖<夕顔 ゆうがお>
第5回 第五帖<若紫 わかむらさき>
第6回 第六帖<末摘花 すえつむはな>
第7回 第七帖<紅葉賀 もみじのが>
第8回 第八帖<花宴 はなのえん>
第9回 第九帖<葵 あおい>

 


 

 

今回も見どころ読みどころ山盛りですが、私が個人的にまず思ったのは、飲むお酒が清酒か白濁しているかで、これだけの考察ができるということ!
普通、漫然とドラマ見てたら、劇中に登場するお酒が清酒か濁り酒かなんてところまで気が付きません。しかし大河ドラマのスタッフはそこまでしっかり考証して撮影しているわけで、そして、それをきっちり見抜いている人がいるわけです!
私も漫画の背景や小道具の作画をすることがあるのですが、これはよっぽど気を引き締めていかなきゃいかんと、恐ろしく思った次第です。

皆さまそれぞれのご感想、お待ちしております!
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