NIKKEI The STYLE「文化時評」に「著作権は憲法上の人権か?『セクシー田中さん』に考える」という記事が掲載されています(限定記事ですが、登録だけで読めるほか、きょうの日経本紙にも同じ記事が出ているようです)。
その中で、冒頭付近にある次の記述
この一文からは、興味深さと違和感の両面から、あらゆる思いが浮かんできます。
まず、前提となる部分を補足しておきましょう。
記載の通り、フランスではフランス革命の期間中である1791年と1993年に制定された法律により、現代の著作権の概念に近い著作物の権利保護が成立しました。これは1789年のフランス人権宣言から続く法整備の一環なので、その意味で人権と著作権は同根のものという考えも、一つの筋道は通っています。
一方、「国王から奪取した」というのは、これまたすがすがしい程にストレートな左翼的発言だなーと感じます(笑)。
引用の上段で「著作権はパトロンを失い」とありますが、そもそも王政下での絵画・音楽・戯曲といった著作物の多くは、制作自体が王族・貴族をパトロンとして行われているので、その権威が失墜した状況下では権利も漂流して当然です。
人権も著作権も、いくら理念としての自然権(この場合、人間や作品が誕生した瞬間に自然発生する)を謳っても、その後ろ盾となる権威・権力と枠組みの無い状態では全く機能しません。
また、権力による統制が行われている状態でも、例えば中国などを見るとよく理解できるように、人権、著作権ともに「後ろ盾となる力の胸先三寸」な部分があります。
国連の内部組織が「人権」について干渉する事へ神経質にならざるを得ないのは、本質的な部分では自国内への武力介入を許してその要求に従う事と変わらないからです。
さて、今回引用した記事も含めた「セクシー田中さん問題」では、「著作者人格権」(公表権、氏名表示権、同一性保持権)を「人権の一部」とした上で、その侵害という論調を多く見かけます。
しかし私は、本件に関しては、人権や法の整備や意識というより、むしろ(それこそ「法を超えた」部分の)信頼関係や慣習の機能不全の方が大きいのでは?と感じています。
というのも、セクシー田中さんの作者である芦原妃名子氏は約30年のキャリアを持つベテラン漫画家。これまで、編集者や出版社との信頼関係や、様々な慣習にそった形で作品を生み出して来たはずです。
自殺した人の心境を正確に知る事は不可能ですが、全くの第三者としては、システム的なものへの絶望よりは、人間関係や常識への信頼と齟齬が生じた事への絶望のほうが、はるかに心を抉られるのでは、と想像されます(こればかりは、本当に想像しかできませんが)。
これは自分自身でも数多く体験していますが、「人権」を守る目的で整備されたはずのコンプラやポリコレといった存在により、これまで人間同士の信頼関係や慣例に依って行っていたやり方が不可能になり、かえって息苦しさを感じるような場面が、現代には数多く存在します。
著作権に関する事は、日本の刑法上では基本的に「親告罪」となっており、行使するかどうかを権利者自身が決める事ができます。これは「グレーゾーン」を生みますが、例えば毎回10万人以上の人を集める「コミケ」などはそのグレーの上で成立しています(厳密な適用にし過ぎると、著作者側がすべての同人誌に対しチェックと許可出しをする事になり、事実上「開催不可」となる)。
人権も著作権も、先回り的で過剰な適用は、むしろ「人間活動」の不自由さにつながる「うらはら」を含んでおり、言葉や表現は違っていても、「大人」であるならば、それを理解する感覚は持ち合わせていなければ、と感じてなりません。