先日のゴー宣DOJOで、小林先生の
「女性の地位向上とは出世のことなのか、そんな程度のものなのか?」
「子供を産んで育てている女性たちこそが地位が高いと思われる世の中にならなきゃいけない」
「子供の声がうるさい、飛行機に子供を乗せるなという人間が出てきている世の中が狂っている」
「その元凶は何かを突き詰めていくと、戦後民主主義に行き当るのだ」
という怒涛のお話を聞きながら、いろんな人が感想に書いているように、私も衝撃波のような感動に揺さぶられた。
同時に、自分自身がいかに「戦後民主主義」というものに漬け込まれているのかということに思い至って、なんだか頭の中に、映画「マトリックス」で、ネオが機械の培養液から目覚めた瞬間の映像が浮かんでしまった。
「女性」と言えば登場する「出産・育児」「家庭」「専業主婦」「仕事」「非正規」「管理職」「出世」という、すでにパターン化された単語のなかをウロウロしていても、それぞれの単語の対立が起きるばかりで、「まあまあバランスをうまくとって…」というところに落ち着きたくなってしまう。
その一方で、「子供を産む女性」について、ただ言葉にしただけで、いきり立って非難する人々の声が、マスコミやネットによって拡声されている。
公私のバランスどころか、公共心のかけらもない、どこまでも私人、エゴイズムを晒しまくって恥じもしないという大人が、大きな顔をすることを許されるようになって、若い世代を追い詰め、少子化に拍車をかける世情を作り上げている。
「子は授かりもの」と言うけど、自分自身がそもそも「授かりもの」、得意なこと不得意なことだけでなく、どんな国情のどんな国に生まれたのかということも含めて、授かったものなんだという意識を持たない人がいっぱいいるのかもしれない。
この世情を本気で払いのけて、「この状況の原因はどこにあるのか」を突き詰め、突き詰め、批判していくためには、相当な胆力を養っていかなければならないなとも思った。
フェミニズム方面から聞こえてくるルサンチマンについても、じっくり考えてみる機会になった。
ルサンチマンは、その女性が「自分は弱者だ」と考えている時に発生するものかもしれない。ただ、社会全体から見て、圧倒的弱者の立ち位置に置かれていたとしても、ひたすら現実と格闘している姿は、実は「たくましい」ということだってある。
私は、自己憐憫に飲み込まれるのがすごく嫌だった。
自分はみじめだ、本来の自分はこんなはずじゃないんだという感覚に襲われると、うずくまって動けなくなったり、自己卑下のぬるま湯に浸かり続けていたくなったり、他人のせいにしたくなったりする。でもそれって堕落でしかなく、底なし沼の危険な闇へとはまり込む入口になるから、必死に否定して前進するしかない。前進は自分の意志だ。
そういう状態で歯を食いしばる世界に、ルサンチマン賛同者を募る目的で、「あなたは被害者ですよ」「搾取されていますよ」という言葉を投げかけるのは、人を自己憐憫に引きずり込んで精神の崩壊を招こうとする残酷な仕打ちにしか見えないから、やっぱり嫌いだわ。