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2024.5.12 07:00ゴー宣道場

残された資料から感じるもの

こんにちは!千葉のKです。

今回は、前回に聞き続き開業医の原進一(18911967宅に残された資料から感じたことを紹介します。写真は原進一の妻であった原喜美子さん(19011987)です。昭和62年86歳で亡くなっています。

この委嘱状は家に残されたノートの中にあったものです。

警防Ⅲ 原」と書かれたノートには大東亜戦争末期の昭和20年3月に閣議決定され、創設された国民義勇隊やその後、6月に創設された国民義勇戦闘隊に関する新聞の切り抜き記事やメモ書きなどがありました。

国民義勇隊の名前は聞いたことはありましたが、具体的にどういうものか知りませんでした。ウィキペディアによると、国民義勇隊とは本土決戦に備え、防空及び空襲被害の復旧などに全国民を動員するために作られた郷土防衛隊組織とあります。そして、この国民義勇隊を基礎として3か月後の昭和20年6月に国民義勇戦闘隊が組織されます。基本的な任務は生産、輸送、防空、復旧、救護などの後方支援ですが、本土決戦を想定しているため、状況によっては戦闘にも参加することが予想されていました。

招集される対象年齢は男性が15歳から60歳まで、女性は17歳から40までとなっています。本土決戦になれば、2800万人が動員される予定でした。

その米軍上陸予想地を日本軍は九州南部関東の相模、千葉の外房と予想していました。実際に米軍側の資料には宮崎、鹿児島に上陸するオリンピック作戦と相模湾と千葉の九十九里から上陸するコロネット作戦が計画されていました。それを予測していた証拠に神奈川の三浦半島や千葉の鴨川や館山にも海軍水上特攻隊である震洋の基地が作られています。

こういった国民義勇隊の委嘱状を資料館などではなく、実際に人が暮らしていた家でみると戦争のリアルをより感じます。また、これらを捨てずに大切に保管していた理由も考えさせられます。

反戦平和主義者は、バカげた戦争を二度と繰り返さないための反省材料として残したなどと言うかも知れせん。

しかし、私の直観はそうは感じませんでした。この夫婦は戦後もずっと日本のために尽くしたことを誇りに思っていたと。

あなたはどう感じますか。

 

 


 

 

戦後自虐史観の文脈では、「国民義勇隊」なんていったら「間違った戦争に国民を総動員した愚行」以外の語り口はありえず、その「幕僚」とか「総世話役」を引き受けていたということは、よく言って「騙されて利用された被害者」、悪くすれば「積極的に戦争に協力して犠牲を強いた加害者」にされてしまうところです。
ご本人がどう思っていたかはもう確かめようもありませんが、もしそんな戦後的な感覚だったならば、このような資料はいち早く処分していたはずです。
しかし、それをこんなにきれいに保管していたというところに、真意は込められているのではないでしょうか?

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