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大須賀淳
2024.5.4 18:06その他ニュース

「手間」という娯楽

皆さん御存知の通り(?)私は人前に出る時は大抵帽子を被っており、トレードマークとしています。

 

実は帽子趣味もそれなりに手間がかかるもの。頭に直接被るのですぐ汚れますが、洗濯機に放り込むわけにはいかないので、マメにお湯で手洗いしては

 

型崩れしないように陰干しします(干す時は、風で飛ばないように内側のタグに重りを付けるなどの工夫も)。

 

私は本来ものぐさなタチなので、洗濯という行為自体は全然好きではないのですが、「手間」のかかる帽子の洗濯は、むしろ「娯楽」の一つと言えるレベルで嬉々としてやっています(これを家族が読んだら、他の洗濯もそうあってくれと言われそうですが(笑))

 

皆さんにも、私にとっての帽子のメンテのような、手間がかかるけど、それ自体を娯楽として楽しめるような物事って無いでしょうか?

 

さて、これのアングルを180度反転させてみると、現代において「娯楽へのアクセス」は、徹底的に「手間のかからない」道筋が用意されます。

 

ネットやスマホといったインフラはもちろん、表現そのものの内容についても、受け手に考えさせるような難解さは嫌われ(ていると、「教科書的」にはされており)、「2倍速で観てもわかる動画」のような構造が「是」とされる風潮さえあります。

 

しかし、観客の「手間」を徹底して排するという行為は、むしろ満足度や幸福度を下げる方向に作用するのでは?という事を、最近よく考えます。

 

もちろん、提供側の無思慮による余分な手間というのは改善されるべきものと思いますが、ぜんぶスマホで消費(←文字通りプラス、象徴としての表現)できてしまうような形に設えてしまうのは、提供側としてはむしろ不誠実なのでは?とさえ感じ初めています。

 

これは「イベントを生で行う」といった事も当然含むのですが、さらに一歩進んで、例えネット完結で提供されるコンテンツであっても、視聴者が「娯楽としての手間」を享受できるような事柄を(できれば表立って強調しない形で)入れ込んでいくと、受け手、送り手双方の幸福度は向上するのではないか?

 

「手間を楽しめる」事は、ひいては社会全体の幸福や活気にも直結しているのでは…などという事を、帽子を洗濯しながら思案しておりました本日です。

大須賀淳

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