突然ですが「キャンセル・カルチャー」って表記、長いんですよね。
元々がもっと短い「コンプライアンス」だって「コンプラ」と略すぐらいだから、認識が進んだら「キャンカル」とかに(?)なりそうなものですが、略語が出現していないという事は、その概念や危険さが、まだまだ広く認識されていないという事でしょう(それを進めるためにも、4月、5月のDOJOを最大限に強烈なものにしなければ!)
キャンセル・カルチャーは文化に対する暴力的な破壊行動ですが、ある種それ以上に恐ろしいのは、破壊の代わりに何も創造しないばかりか、その焼け跡を放射性物質や化学薬品のように汚染してしまい、何も生み出さない不毛の大地に変えてしまうという点です。
弱者のルサンチマンによるキャンセルで強者が「殺され」ても、「そこに代わる強者」は生まれません。文化的・精神的連続性が不自然な形で裁断されてしまうからです。
ジャニーズや松本人志のキャンセルの後、その「跡地」に、何か一つでも人々に楽しみや活力を与えるものが出現したでしょうか?まだ時期が浅いという声も出そうですが、キャンセル・カルチャーが「功」となって生まれるものは無く、その場には虚無が残るのみと断言しても良いでしょう。
また、週刊文春を始めとするキャンセル・カルチャーを後押しするメディアは、自ら「次のキャンセル対象となる爆薬」をせっせとためこんでいる状態だと思います。元々が「倫理」の面でギリギリの「商売」をしている存在なので、驚くほどの速度で「しっぺ返し」が来る可能性大です。
この風潮に安易に便乗し続けたら「週刊誌〝文化〟」の終焉は、予想よりもずっと速い速度でやって来るでしょう。
「真実」の希求は、あらゆる事実性とまっこうから向き合わないと不可能なので、そこから(教訓など概念的なものも含め)多くのものが生み出される可能性を持っています。
一方、似ているようで全く違うのが「正義」の行使。正義は極めて相対的な概念なので、もたらすのは破壊という事象のみ。兵器としてはとても強力なので、自爆を含め「危うさそのもの」といえるような性質を持っています。
正義を無節操に濫用するものの多くは、危険さをわかっていない愚者か、もしくは心中の相手を探している自殺志願者のようなもの。私は、特に後者によって社会が紊乱される危険の高まりに、戦々恐々としています。
こうした状況を打破するためにも、DOJOから「生み出して」行く勢いをさらに加速したいです!