「人権」は、定義上では人種、国籍、性別、年齢を問わず、人間という種として生まれた時から普遍的に持つ権利とされています。
それはしばしば「多様性」という語とセットで使われますが、一方で厳密に突き詰めるほど慣習や宗教といった土着の概念との齟齬も生みやすく、皮肉にもそういった「多様性の構成要素」を封殺する旗印に使われる事が少なくありません。
歴史、宗教観、慣習の切り離しや破壊といった性質から、人権は「左の道徳」と表現できます。ただしそれは、時間の中で自然に醸成されたものではなく、ある種「人工道徳」とでも呼べるような無理、不自然も内包しています。
では、その対立概念は何か?
まずは表面的な部分で見てみましょう。人種、国籍、性別、年齢にフォーカスした道徳観というと、日本会議などの右派団体の主張や、それらが推す「親学」や「教育勅語の復活」といったものが当てはまるでしょう。
しかし、お題目として歴史や伝統といった言葉を頻繁に使うこれらも、実は全く伝統的なものではなく(「江戸しぐさ」のように捏造レベルのものもあり)、また一時期の時代背景から生まれたものの、現代においてまったく実効性を失っているものも少なくありません。
こうした、言わば「右の道徳」も、同じく「人工道徳」と呼べるでしょう。
この両者は当然仲が悪くいがみ合っていますが、実は「歴史や慣習から遊離したイデオロギー=人工道徳」という意味では、同じ穴のムジナです。
「人工道徳」に共通して欠落しているのは、個々人の「感情」です。
おそらく、矯正された人格の集合体がエラーなく作動することが「公」であるという決定的な認識違いが元になっていると思いますが、その先には人間性を奪われたディストピアしか存在しません。
「文化」は、歴史の流れの中で、無数の人々の思いと行いが積み重なり、それが醸成された産物です。
感情を欠落させ、マニュアル的に行動を縛る「人工道徳」は、現状のディストピア化だけでなく、将来に渡る文化の途絶という取り返しのつかない蛮行に他なりません。
思考実験の中においては「人工道徳」的な観念も一定の役割を持ちますが、それを絶対的なマニュアルとして思考停止する事は不幸しか呼ばず、机上を超えて実社会の中で、迷いながらも実存の中で花開かせて行ってこそ、最良の形で次の世代に受け渡せるでしょう。
「これが道徳だ!」と示される「模範解答」を丸呑みせず、正面から対峙することこそが、本当の「道徳的な態度」であると考えます。