先日書いた記事「文化とculture」には、各所で多くのご感想をいただきました。今回から2回に渡って、いただいた文を交えながら、cultureについての掘り下げを行ってみます。
まず今回は、DOJOサポーターのメーリングリスト内で頂いたお二人の感想をもとに展開します。
「文化とculture」、非常に興味深い考察でした。
正しいかわかりませんが、「culture」の前に「cult」(宗教儀礼)があったのではないでしょうか。
「cult」(いまのカルトとは別にして)から歌や踊り、お供えの工芸品などが生まれ、「culture」になった。
もっとも日本といまの欧米の宗教観、多神教と一神教ではちがうと思いますが。
日本ではお米が密接にからんでいます。
お神輿の鳳凰は稲穂をくわえ、お米から作ったお神酒をあげる。
(ヨワシさん)
調べてみると、ヨワシさんのおっしゃる通りどちらもラテン語で「耕す」を意味するcolere(及び過去分詞のcultus)が語源になっていました!
そして興味深いことに、同じcolereを語源とする言葉に「colony」=「植民地」がありました!
植民地化の本質は、物資や労働力の搾取のさらに先にある「文化の上書き」で、その土地で積み重ねられた慣習や価値観を骨抜きにし、独立の気概を奪って永続的に従属させる事にあります。
統一教会などのカルトのステルス侵略によって日本の伝統に基づく文化が毀損され、精神的に「植民地化」されてしまう、といったような構図とも妙にピッタリきます。
キャンセル・カルチャーに類される事柄が、やがて天皇・皇室(ひいては日本の国体)のキャンセルにつながるかもという危惧は、将来的なものではなく、既にその攻防の真っ只中にいるという位の緊張感が必要なのかもしれません。
もうお一人、感想をご紹介します。
「栽培」という言葉を聞いて、そういえば、昔学校で「culture」の語源は「耕す」と習ったことを思い出しました。調べてみると確かに「耕す」と言う意味の「cultivate」も「農業」という意味の「agriculture」も派生語だとか。
確かに、西洋の文化、宗教には根底に人間中心主義的なものを感じます。人間と自然が対立関係にあり自然は人間が克服すべきものだとする考え方です。
一方、日本人にとって自然は克服するというより共存、さらに言えば崇拝の対象にさえなります。神社の御神体には山や木や岩などがある例を見てもわかります。その考え方は建築物にも現れているのは以前、にしやんさんがブログで書かれていた通りです。つまり西洋では自然災害に対し出来るだけ頑丈な建物をと考えるのに対し、日本では地震の発生に対してもそのエネルギーを吸収し、崩れた場合も人が生存できるスペースを確保するという考え方です。
こういう考え方は人間が考える架空の生物にもその違いが現れているのが面白いです。その生物とは「龍」です。西洋でいう「ドラゴン」です。どういう経緯でこの架空の生き物が登場したのかわかりませんが、姿かたちは似ています。しかし、この生物に対する印象は東西でかなり違うのではないでしょうか。日本では「龍神」という言葉にもある通り、神様に近い対象となって、神社やお寺にも正面にその彫刻が飾ってあります。
一方ドラゴンは私の印象では火を噴く怪物、モンスターというイメージです。
「文化とculture」から様々なことを考えました。
(くろさん)
くろさんの書かれた「人間中心主義的なもの」は、行き過ぎるとそのまま過剰な人権偏重につながり、「自然」と同じように長い時間の積み重ねで醸成された文化を「克服すべきもの」と捉えてしまうのかもしれませんね。
「日本人論」の最終章で挙げられた陰翳礼讃も、闇を「克服すべきもの」と捉えず、刻々と変化する光との相対の中に美を見出すまでになった。
「闇」とは、見方を変えると「想像力で補完される余白」と言う事もできます。闇が存在するからこそイマジネーションが働き、その産物が蓄積して文化が醸成される。
(比喩を含む)「人工的な光」を過度に用いる行為は、ある種「麻薬」にも似ています。思想することで精神の高揚を感じるのではなく、薬品で脳内物質をガバガバ出して快楽を得る。変な言い方をすれば、高揚の手段としては実に「合理的」ですが、当然ながらあっという間に廃人となり、文字通り「オシマイ」です。
その意味でキャンセル・カルチャーは、非常に「麻薬的」です。価値との対峙や思想を経る事なく、「正義のお墨付きを備えた注射」(ちょっとどこぞの「注射」にも似てる(笑))を打てば、たちまち問題が解決したような快感に浸れるのですから。
しかし、当然それは幻想です。社会は健全化するどころか、虚ろな目でよだれをたらし、千鳥足で徘徊する中毒患者のように破滅へと向かいます。
キャンセル・カルチャーによる侵略は、現代のアヘン戦争なのかもしれませんね。