英語の「culture」は、ほとんどそのまま日本語の「文化」と同義であると、日本では捉えられています。
しかし、英和辞典で「culture」を引くと、日本語の「文化」には絶対に含まれないニュアンスとして「栽培」というものがある事に気が付きます。
私の感覚では、文化とは人間による様々な行いの「結果として熟成」されたものであると捉えています。「人間により作られたもの」であっても、特定の思惑によってその姿をコントロール下に置く事はできないと考えます。
一方「栽培」は、生育の過程や結果(収穫)を、可能な限り人間の思惑通りにコントロールしようとする行為。そのためにテクノロジー(=「文明」の利器)は介在しても、それそのものが「文化」という感覚にはつながりません。
むしろ、農業を営む中でも、人為的なコントロールの及ばない要素(気象条件など)への祈りなどから、祭祀などの「文化」が生まれて行きました。
こうしてみると、キャンセル・カルチャーに流れる価値って、とても「栽培的」ではないでしょうか?ちょっと形の変わった株は引っこ抜いて排除し、規格どおりの均一な作物が並ぶ畑にする。
そうすると、cultureって「自由」や「多様性」とは真逆の言葉にさえ思えてきます。僕の愛してやまない「サブカル」なんかは、「栽培される」(ように管理される)事への最大限のアンチテーゼですし(と大須賀さんは思いますが、皆さんどうですか?)
キャンセル・カルチャーとは、アンコントローラブルな躍動と共に生きている文化を、「栽培」としてのcultureに押し込もうとする、強固な管理的行為なのではなかろうか。
「嫉妬」からキャンセル・カルチャーに声援を送る人に言いたい。貴殿達の本懐は「規格にはまらない人を排除する」事か?ちょっとエグい事言うけど、そうしたジェラシッ子の諸君って、「社会が求める人間像」と思い切りバッティングして、傷ついてきた人多いんじゃない?(俺もそうだった。だけど、俺は「栽培プラントに押し込められる」ような状況からは努めて距離を起きながら、今の人生を歩んでいる)。
たぶん「文化とculture」について、しばらく自分は一日累計3時間ずつぐらいは自己内で対話を続けると思うので、その中に面白い発見があれば随時書いて行きます。