先週は「公につくのが保守、私に流れるのは保身」という話をしました。
では今保守を自称している人たちとは一体何者でしょうか?
とは言いつつ、自称保守・男系派・ネトウヨがどうしようもないことはもう誰もがわかっていることなので、福澤諭吉の『文明論之概略』を引用して、むしろこの本の紹介をメインに話を進めます。
自称保守・男系派・ネトウヨたちは、その言動はひたすら同じことを繰り返すのみで、アップデートが全くないため、ゴー宣ではよく「化石脳」と呼ばれます。
自分は「死物」という言葉が頭に浮かびました。死物とは、生命のないもの、活動しないもののことです。
感情を持って自ら動くことのない無機物であって、石とかですね。
この言葉は『文明論之概略』でこのように使われています。「文明は死物にあらず、動きて進むものなり。」
現代語訳では「文明というのは、死んで動かないものではない。動き発展していくものである。」となります。
動いて発展していくというのは、私たちの日々の営為はもちろん、天皇・皇室の方々ももちろん同じです。
けれども公心がなく自己中心的で、自己都合の保身しかなく、思考もせず、動かないことが保守だとかカンチガイしている死物の男系派にはそれがわかりません。
だからこそ、「旧宮家を入れればいい」だの、「女性はいいけど女系は駄目」だの、Yだの、具体的に考えていけばデタラメなことを平然と、かつ延々と言い続けるわけです。
人の人生を何だと思っているのでしょうね(「人」と言っても、皇統問題においては皇室の方々のことなので、保守どころか国民として終わってるのですが)。
『文明論之概略』は、第二章でストレートに皇統についても言及しており、まず日本は最も尊いもの(天皇)と、最も強いもの(武家政権)が一致しないようになっていた、と書いています。
簡単に言えば、将軍は権力は振るっても、シナの皇帝のように自分自身を神聖視させることはできませんでした。
よく天皇と政権の関係で説明される「権威と権力が分かれている」というのは福澤諭吉も言ってたんですね。だからこそ中国のような独裁制の国と違って、日本独自の文明(文化含む)の多様さになったとあります。
さらに「世間一般の通説が天皇の血統だけに注目しているのは不審に思っている」とも言っています。
皇統は国体と不可分であり、外国人に政権を奪われたことのない国体とともに捉えることが重要と書いています。
血統が続いていることだけを自慢するのなら、そんなことは北条氏も足利氏もやっている、とのことです。
それはそうですよね。男系主義の本場である中国には孔子のガチの男系血統の家系図があって、ギネスにも載っているそうですから。
男系派は「とにかく続いてるから凄いんだ(だから変えるな)」と延々と言いますが、「中国の男系血統はもっと続いてるからもっと凄い」と言わなければ筋が通りませんし、実際そう言われただけで彼らの天皇観は全て崩壊します。
「男系血統が全て」と当人たちが言ってるのだから、当然の帰結です。
『文明論之概略』は、上記の後で「惑溺を払うべし」という話に繋がっていきます。
「古い習慣に束縛される惑溺を除かないことには、人間社会は保てない」とはっきり言ってます。
以前に倉持さんも取り上げた「惑溺」という言葉は、「執着」や「固執」とほとんど同じ意味です。
男系固執派=男系惑溺派は、福澤諭吉が最も嫌った存在と言えます。
自称保守・男系派は「明治が大好き」ということになっていますが、福澤諭吉の主張と真逆のことをやってるのは一体どういうつもりなんですかね?
※もちろん、死物である男系派に「つもり」なんてものはありませんが。
ちなみに『文明論之概略』も、西洋文明のことを「完璧なわけではない」としながらも、ちょっと褒めすぎで、若干進歩主義な部分も感じられますが、それは端的に言って「早く封建制度から国民国家になれ」と言いたいんだろうなと思いました。
ですが、約150年経った今の世界を眺めていると、「西洋は野蛮」と言い切った西郷の言葉の方が的確だったと思います。
そんな細かいところはありつつも、強い説得力があり、現在の自称保守とも、左翼な進歩主義者とも決定的に違う点は、福澤諭吉が文明の進歩を目指す目的が「自国の独立のため=国体を保つため」だからでしょう。
しかも、今の男系保守カルトには「時計の針を進める必要はない」的な、道理も何もないことを平気で言う輩もいます。
これについても福澤諭吉は
「わが国の皇統は国体とともに連綿と続いて外国にもその例がない。これを、わが国一種の「君国並立の国体」ということもできるだろう。
とはいっても、これをただひたすら守って退歩するのでは仕方がなく、これを活用して進むべきであろう。」と釘を刺しています。
さらに、
「君国並立の国体がもし文明に適さないことがあれば、その理由は必ずそれが長く続いたことにともなう虚飾や惑溺のせいであろうから、
ただその虚飾や惑溺を除いて実際の効用を残し、それに応じて政治を改革して進んでいけばよい。
そうすれば、国体と正統と血統の三つは矛盾することなく、いまの文明と並び立つことが可能だろう。」
と書いています。
完全に福澤諭吉は、自称保守・男系派・ネトウヨ的なものをターゲットにしてボロクソに言ってますし、同時に惑溺すること、つまりはネトウヨ保守化&反戦平和左翼化&政治のことなんてよくわからないし国のことなんて関係ないやと私生活のみで生きることは駄目なんだとも書いているわけですね。
同じことを繰り返す人たちのことはAIっぽいなと感じたりもするのですが、最近のAIはディープラーニングといって、コンピューターが大量の情報を収集してそれっぽい結果を吐き出すだけで、AIと言っても感情を持っているわけでは全然ありません。ですが、一応元になった情報によって結果が変化はします。
全く変化しないというのは、今の紛い物のAIですらなく、一昔前の機械と同じです。死物ですね。
そこで思い出すのが(福澤から一気に離れますが)、アメリカで90年代に活躍したRage Against The Machine(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン)というバンドです。
バンド名を直訳すると「機械に激怒せよ」であり、ここで言う機械とは機関・機構のことで、つまり政府のことを指していたわけですが、要するに「機械みたいな無機質なヤツらに怒れ」という意味でしょう。
だからこそ、同じ趣旨の映画の初代『マトリックス』のエンディングテーマに『WAKE UP』という曲が使われていました。
『マトリックス』は『新堕落論』のディストピアを拒否する回でも取り上げられています。
「人間は考える葦」というパスカルの言葉もあります。であれば、モノを考えない自称保守・男系派・ネトウヨというのは人間を諦めていると言えるでしょう。
ジョジョで言ったら「考えるのをやめた」でおなじみのカーズですね。
少なくともそんなものは保守としてニセモノであることは間違いありません。
実際、今左翼がガンガン仕掛けているキャンセルカルチャーにも、自称保守はボケーっと傍観していて、何の役にも立っていません(なんならキャンセル左翼に加担している男系派もいるくらいです)。
サヨクの時代は『戦争論』で終わりましたが、ニセ保守の時代も終わるべきです。
『文明論之概略』は、その論理が全て「自国の独立」という目的に向かって組み立てられているのですが、それは今も同じということは伝わっていないように思えます。
今の日本は外国人に政権を取られて抑圧されているわけでは(表面上は)ないので、「独立できていない」ということにリアリティが感じられないのでしょうか?
その点についても福澤諭吉はこう言っています。
「独立とは、独立すべき力があることを指していうのであり、偶然に独立している状態をいうのではない。
わが日本に外国人がいまだ来ていない状態での独立は、本当に独立しうる力を持って独立しているのではない。
ただ、外国人に触れていないから、偶然独立の体をなしているだけのことだ。」
今風の卑近な例で言えば、イイトシした大人が親に依存して平和に暮らしてるとしても、それがいつまで続けられるかはその人には一切わからないということですし、何らかの理由で親による庇護が終われば即おしまいで、なぜなら自立してないから。ということになります。
先日のゴー宣DOJOでも言及されましたが、今の日本に差し迫った侵略の危機としては中国とロシアがありますよね。
もしウクライナが負ければ、次にロシアは北海道に侵攻してくるかも知れませんし、中国の台湾侵攻があれば、米軍は在日米軍基地から出撃するので、必然的に戦争状態になります。
ウクライナ戦争のように米軍が動かなかったとしても、日本は道義としても、国益としても、台湾を見捨てるわけにはいかないはずです。
トランプはウクライナを見捨てるようなことをよく言ってますし、台湾も日本も守る気はないでしょう。
ウクライナ戦争の結末によっては、中国の台湾侵攻に合わせてロシアと北朝鮮が同時に来るということもあり得るのではないでしょうか。
しかも日本の防衛は9条があるためにアメリカ頼りなのは周知の通りです。こんな有り様で、日本は独立できている=国防が盤石=この先もずっと日本国は続いて安泰、と言えるでしょうか。
こうしてみると、『文明論之概略』は明治8年(1875年)の刊行ですが、当時の独立・国防が危機だったからこそ書かれたわけで、現在と状況が似ていますね。
今から見れば、日清日露と勝ったので、もうこれ以降は軍国主義でイケイケで大東亜戦争に至ったんだろうとか思われがちですが(実際に学者や大学教授はほぼそう言います)、日露戦争が余力のないギリギリの勝利だったことは、護国神社にある英霊顕彰館の歴史解説にも書かれています。
まとめると、保守(右)vsリベラル(左)というそれぞれの政治陣営は、どちらも「自国の独立」を見据えてなかったために、その何もかもが全て無意味で、自称保守も、リベラルも、保身をしてるだけで一切思想のない死物になっていました。
政治も「自国の独立」を放ったらかしていたので、右と左の枠の中でごっこ遊びをしてただけで何もしてきませんでした。
そうして国防の危機、皇統の危機は今ここまで悪化しました。
左翼が嫌いだからネトウヨになったとか、保守派は軍国主義で改憲だから左派が正しいとか、そんなふうに考える単純脳な人にもうんざりです。
ということを『文明論之概略』を使って説明してみました。
【トッキーコメント】
ネトウヨ・自称保守は、何も考えない、勉強もしないから
ネトウヨ・自称保守になるわけで、『文明論之概略』なんか
知っているわけがないのですが、既に150年前に
ネトウヨ・自称保守的なものがボロクソに否定されていた
ということは、しっかり知っておくべきです。
そして、そんな一切何も考えない死物のために
皇統を滅ぼされるようなことは決してあってはならない
ということも、言うまでもないことですね。