「安倍晋三」という人について考えた時、いくつもの憤慨と共に、幾許かの「気の毒な人物」という感情も自分の中に存在します。
それを如実に感じられる例として、Wikipediaから経歴の一部を引用します。
外車で通学の大学生活後、2年の気楽そうな語学留学を経て大企業に入社し「いい所のお嬢さん」と結婚。
ここまで「自分は持ってないもの」ばかりなのでやっかみも起きそうな所ですが、秘書官になるのを拒否したのに、権力者である父ちゃんが勤務先に鬼電して仕事を辞めさせるって…まーそれぞれ置かれた立場なりの災難があるのだなーと、「自由のない気の毒さ」から全く嫉妬はわきません。
それでも、自らの意思だったと思われる補選への立候補は、これまた父親によって潰され、最終的にその父の死に伴って、地盤を受け継いでの政界入り。
もちろん、各々の局面における本人の心境はわかりませんが、基本的に「流されて」いった人生前半だったのだなーと感じます。昭恵夫人を含め、極めて公共性の強い立場ではなく、もっと平凡な立場のほうが、本来の人間性にちょうど良かったのかもしれません。
ただ、形は様々あれど、人の運命は多かれ少なかれコントロール不能な要素に流される事は避けられないとも思います。
重要なのは、「流されて」いる状態でも身体は水面に浮いており、周囲の模様を見る事ができるので(もちろん比喩的表現)、公と私の関わりや、その中で自分が果たすべき事を認識できるという所。
安倍氏も、最初の政権の頃まではそうした面を持ち合わせていたような気もします。
しかし、特に再び政権を得た後、彼は「運命に飲まれてしまった」と感じます。
飲み込まれた濁流の中では、乱れ散る水泡や荒ぶる水音以外の何も見えない、聴こえない。流れと自己とが個別のものであったかも既に判断できず、果ては氾濫して周囲に厄災をもたらす存在にまで堕ちてしまう。
「流されて」はいても、自らと公との関わりについて考えられる感性や常識が機能していれば、元首相という立場で統一協会への賛美メッセージを贈ることなど、決してできないはずです。
↑これを「ダメでしょ!」と思わない・思えないのは、感性が壊死しているか、欺瞞かのどちらかです。
公と私の境界線まで見失った結果、「私憤」によって討たれたのだとしたら。
気の毒ではありますが、とても同情はできません。
さて、その一方「贖え無い流れ」はすべての人生に隣接しており、どれだけその不条理を嘆いても、他人はせいぜい「気の毒に思う」ぐらいの事しかできません。
2/10のDOJOでも発言しましたが、自らの世代を不遇だと徒に嘆くだけだと、いとも簡単に「飲み込まれて」しまうのでは…と、自分の中の本能的な部分が警戒信号を発して来ます。
どんな激流に流されていても、ニヒリズムの果てに飲み込まれてしまう事なく、ギリギリの舵取りを続けていく気概こそが、「個」の人生に活気を与え、「公」を支え継ぐ基盤になると思います。
精神論上等!山積みの「現実」に対処するにあたり、せめて精神的な元気さ程度も無ければ、とてもやって行けません。
人心に栄養を補給できるエンタメを、どんどん発信して行きたいです!