1970年代の連続企業爆破事件で長年に渡り指名手配されていた桐島聡容疑者が、末期ガンで入院中の病院で「自分は桐島聡」と名乗り出て、本人の可能性が高いと見られている事が話題となっています。
本人は「最期は本名で迎えたい」と言っているそうで、半世紀も偽名で潜伏生活をしていても(だからこそ?)アイデンティティーを他者に承認してほしくなるのですね。
ちょうどこのタイミングで、今日のよっしーさんの記事「延命治療と年金さま」を読んで、もしこの人に最大級の刑罰を与えるとしたら?という想像につながりました。
もちろん、捜査や裁判を経ずに刑罰を与える事などできないので、完全な思考実験です。
私が考えた最も恐ろしい罰は「認知症老人の妄言として一切とりあわない」という扱いです。
特に、こうした思想犯で、なおかつ「あの事件は自分がやった」事を周囲に承認してもらいたい欲求を持つ者にとっては、すさまじく屈辱と絶望にあふれた状況だと思います。
本人にとっての「決死の告白」に対しては「ふーん、あーそーなのー、すごいねー」という反応をしつつ、介護や治療はものすごく手厚く行い、「病人、老人だから」という理由だけでの労りを重ねるほど、本人の真の欲求からは遠ざかります。
そして「さらに残酷に」するのであれば、偽の人生ストーリーと家族、写真などをでっちあげて、逃亡・潜伏していたという本当の人生までも「妄想」にしてしまうのが「効果的」でしょう。
例えば、
裕福な家庭に生まれ、受験に失敗した後は一度も就職する事なく、親の資産を食いつぶしながらパチンコと風俗通いばっかりで周囲に疎まれながら50年過ごした挙げ句に病気になり、認知症も悪化したため現在入院している。過去に幼女へのいたずらや露出狂などでつかまるが、親族が示談にしたので服役などのハードな経験もなく、ただただ漫然と無駄に過ごした人生。
…嫌だな〜この人生!
こういう設定のもと、周囲の全員が「こういう人物」として接するんです。最初は「何が起きているんだ?」と思うでしょうが、徐々に「もしかして、本当に自分の方が狂っているのか?」という疑念も出てくるでしょう。
生体機能の維持だけが徹底的に保護されながら、「尊厳だけを死刑にする」
想像しただけで恐ろしくなります…。自分だったら、どんな死に方よりも嫌かも。
でも、思うんです。
桐島容疑者の逃亡中の生活はまだわかりませんが、もし何らかの形で(あえて中身は問わず)「信念」に基づいた行動をしていたならともかく、ただ潜伏して生きながらえる事だけに専念していたなら、「尊厳だけを死刑」と大差無いと感じてしまいます。
居場所の発覚のリスクを取ってでも、声明など様々な形で信念を世間に訴え、もし逮捕されても、取り調べ、裁判、さらに手記などで訴えを続ける。
「表現者」なら、こうするはず。
そうでなかったなら、当時「所属していた世間」の空気のままに活動したけど、命をかける覚悟もないのでひたすら逃亡。だけど、死を前にして、自分は「歴史的」な事をやったんだと承認されたいエゴが出てきて告白。
そのように思われても、仕方がないでしょう。
つくづく「命はどう使うか」が全て、と思えてなりません。