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2024.1.29 07:00ゴー宣道場

倫理と法律の関係 その2

おはようございます。三味線です。
前回の記事には、いろいろ反響もいただき、誠にありがとうございました!
いつも「倫理はよーわからん」「難しい」といった声はあるのですが、残念ながら、それを簡単に説明する「倫理とは○○である」といった定義のようなものはありません。面倒ですが、いろんな方面から、群盲象をなでる方式で真理に近づく以外にはないでしょうね。

ただ、反響を頂いた中でいくつか言えるのは、意外に思うかも知れませんが、倫理では、
●私的な価値観や、私的な嗜好(好き嫌い)や快不快はほとんど問題としない(関係ない)
ことです。たとえば、
「チェブリンは可愛い」「だから惚れない者は非倫理的である!」
とは、みんな言いたくても^^’;言えないんですよね(笑)
私的な価値観や嗜好を倫理にしてしまうと、発散してばかりで収束しない、つまり「理」にならないのです。日々の仕事でも、職業倫理上、普通は私的な好き嫌いなどを仕事に持ち込まないことからも分かりますね。
あ、そういや、いまだ皇統を断絶の危機に陥れている安倍晋三丁目の住人たち=男系カルト・エセ保守が、「男系男子がイイんでちゅ!」「旧宮家があるんでちゅ!」などとジタバタ駄々をこねても、それはせいぜい反戦サヨクと同レベルの幼児的嗜好なので、そんなものを一々採り挙げてはならんのと少し似ていますね。
ただし、私的な価値観や嗜好や快不快は問題としなくても、もちろん、公的な価値の序列や礼節はあって当然ですし、それが何かは倫理の範疇です。
ちなみに、
「処世術」は倫理ではありません。
とくに我が日本で、倫理とよく混同されがちな「処世術」(≒偽善)に至っては、主目的が自分自身やその狭い世間のお仲間だけなので、倫理とはほとんど真逆になるケースが非常に多いのです。実際、大概の「世間」では、倫理的な言動によって(処世術に反して)その空気を乱してしまうと、ネチネチと嫉妬されたり叩かれたり干されたりすることからも、よく分かりますね。

ということで、
●ちょこっとだけ、先週の復習
https://www.gosen-dojo.com/blog/44614/
先週は、倫理と法律について、辞書的な意味合いから、そもそもこの2つは目的からして別モノであること、物事の善悪・良否・優劣の決断、つまり価値の序列付けが倫理であること、「法と倫理は補完関係にある」といったユートピア的言説が広く普及してしまっていること、法律は倫理(や哲学)に基づくべきことなどを紹介しました。

●やっと今回の本旨(倫理と法律の関係 その2)
今回は、倫理にはどういった性質があるのかを、法律と照らし合わせながら考えてみましょう。以下の表は、その関係を整理してみた私案です。

左側に倫理の性質、右側に法律の性質を並べています。上から順に見ていきましょう。

●自律・自立←→他律
まず、法律は他律、つまり他者から強制的に律せられ、倫理は自律的・自立的に自ら推進するもので、他者から強いられるようなものではありません。これが基本です。天皇陛下や皇族方への敬愛や、国民との相思相愛にも通じるかも知れませんね。
●自由(危険)←→不自由(安全)
次に、法律は他律ゆえに不自由ですが安全な檻の中にいる状態。倫理は自律的・自立的な判断によるため自由ですが危険です。危険なジャングルを一人で自由に歩くようなもので、守ってくれる柵や檻は基本的にありません。組織に守られない自営業やフリーランスと似ていますね。その自由は、決して無制限な楽園的自由ではなく、相応の努力や自律を自らに課すことで自分をコントロールする自由です。よしりん先生の愛読者なら、「自分を一番自由にしてくれる束縛は何か? それを大事に思う心を育てよう」でピンとくるのではないでしょうか。v^^
●有責任←→免責任(と併せて)●無契約←→有契約
一般に、法律に従ってさえいれば(安倍昭恵氏のように、下の下(げのげ)まで人倫に悖る卑劣なことを散々やらかしまくっても)免責されますが、倫理による判断や行動は自らの責任になります。また、法律はその共同体に属するためのいわば社会契約ですが、倫理は基本的に無契約、ボランタリー、主体的な自由意志なんですね。
●信頼関係←→不信関係
そして、少し大雑把にいえば、法律は社会における不信関係に基づきますが(「コイツ、悪いことしとんちゃうか?」「こんなことしたらアカンで!」みたいな。笑)、倫理は法律に書かれていなくても「こうした方が(社会にとって)いいよね」「これってマズいよね」といった社会との信頼関係に基づきます。社会との信頼関係については、テーマが大きいので別の機会に触れましょう。
●勇気・覚悟←→臆病・同調
法律は絶対的な臆病者や弱者だったり、条文に従順だったり集団に同調するほど保護されます。しかし、倫理には倫理綱領などの文書規範はあるものの強制力はないので、それさえ遵守すれば守られるということはありません。なので倫理を推進するには、個人としての勇気や覚悟が求められます。もし「これが倫理だ!」と思ってその言動が間違っていても、それはその人の責任です。イジメを目撃して「オマエらそんなことやめろ!」と言うのも、けっこうな勇気や覚悟が必要です。
●有能・実力←→無能・無力
同様に、法律下では無能や無力であっても保護されますが、倫理的であるためには有能性や実力が求められます。「強者でなければ弱者を守れない」というのもよしりん先生の名言ですが(すいません。出典忘れました-人-;)、有能でなければ倫理的であることは困難です。安倍晋三丁目の住人たちのようなお仲間主義の弱者が倫理的であることは、原理的に無理でしょう。
●個人主義←→集団主義
法律は基本的に集団主義ですが、倫理は概ね個人主義です。よく「企業倫理」などと言われますが、以前紹介した民放連の「報道指針」などは、大ウソ・大ホラ・偽善のオンパレードで、極めて非倫理的、極めて悪質かつ身勝手で、情状酌量の余地は一切ありませんhttps://www.gosen-dojo.com/blog/43707/。企業や組織は「法人」つまり架空の人なので、そもそもそんなものに倫理や感情など、あろうはずがありません。結局、中にいる個人次第ということですね。
●事前処理←→事後処理
最後に、法律が得意なのは事後処理であって、多くは事件や事故や問題が発生した後の話になります。たとえば、未知のウィルスやワクチン薬害のような最新の科学に対しては、法律はほとんど無力です。倫理であれば、よしりん先生が『コロナ論』シリーズを描いて下さったように医者や学者やマスコミや政治家などに殺されたり重度の障害を背負わされたりせずに、多くの人が救えます。事前処理が可能なのが倫理の大きな特徴です。もちろん、倫理的判断を誤れば悲劇も生みます。倫理は本質的に危険なのです。

分かりやすさを優先して全体的にかな~り乱暴ですが、倫理と法律の特徴や、それらの関係に、思い切って踏み込んでみました。次回以降、倫理や法律がどのように形成されていくのか、今度こそ、その源泉を巡る旅にでかけましょう。

 


【三味線 プロフィール】
生業の道路・河川・港湾等における電気通信設備設計の傍ら、大学等で技術者倫理,エンジニアリング・デザイン(設計論)の非常勤。酒と煙草と本と映画と音楽とブラックユーモアを愛し、差別と偽善と全体主義が嫌いなノラ猫型。趣味は多趣味。ゴー宣DOJOでは主にPA廻りを担当。

 


 

 

【トッキーコメント】
「強者でなければ弱者を守れない」という言葉そのものは出て来ませんが、よしりん先生のその思想が描かれているのが『ゴーマニズム宣言6巻』収録の第116章『弱者のための強者の論理』です。
ある意味、ゴー宣全体が「倫理」の書であるともいえるのではないでしょうか。

 

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