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大須賀淳
2024.1.18 16:34その他ニュース

欲求と感情(後編)

ちょっと間があいてしまいましたが、前編からの続きです。

 

欲求」と「感情」は、共に「私的なもの」として括られがちですが、実は大きく異なる概念です。

 

「欲求」は、生体の維持などに必須の事柄が不全な状態にある場合に発せられる「危険信号」で、認識されている時は「マイナスの状態」であり、満たされると報酬(快感)が得られます。

 

食欲、性欲、睡眠欲や排泄といった身体内のものはもちろん、いわゆる「承認欲求」も、群れから疎外されておらず安全という状態を確認するための本能的欲求と言えるでしょう。

 

一方で「感情」は、欲求が現実や決まり事と対峙した時に生ずる、はるかに複雑で左脳的かつ抽象的な事象です。

 

動物的本能では、欲求の充足を阻害されるのは不快でしかありません。しかし、人間は欲求と向き合った時、「想像力」を用いて、それを満たすために行動した結果の未来を思い描くことができます。

 

その結果、より利益の大きい展開のために「我慢」したり、または自身の状態を他者へより明確に伝えるための「笑う」「怒鳴る」といったわかりやすい形で発露します。

 

「感情」とは、こうしたプロセスの総称であり、その作動がきわめて大きいのが人間という存在です。

 

逆に言えば、人間性とは、快・不快の度合いといったモノクロームではなく、喜怒哀楽といった原色がさらに微細に混じり合って極彩色を成す「感情そのもの」と言えるでしょう。

 

ところで、先にも述べたように「欲求」は感じる言自体がストレスのため、欲求が満たされた究極の姿は「何もしなくて良い」状態と言えます。

 

動物園の動物がのへーっと寝そべっている様子、あれは欲求が満たされた生物の典型的な姿です。大脳が異常に発達している人間であれば「こんな状態ではいけない!」という焦燥感(実はかなり複雑な種類の感情です)がわくでしょうが、感情の作動に乏しい動物は、そんな「燃費の悪い」ことはしません。

 

「選挙」は、国民であれば誰でもができる感情表現、それも社会全体に影響を与えることができる、最大級の威力を持つものです。

 

投票率が低い(感情表現の機会を放棄する)のは、感情を抑制される言に慣れすぎてしまったり、そもそも情動自体が、まるで動脈硬化のように凝り固まってしまっているのではないか。

 

前編で私が書いた「不健康さ」は、こうした「人間性の弱体化」に起因していると思います。

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おそらくゴー宣やDOJOに関心のある方であれば、この話からすぐに「コロナ騒ぎ」を連想されると思いますし、実はエセ保守による公の毀損にも、とても根深く関わっているのではと考えています(何せ、同じ現代の日本社会で起きている言ですし)。

 

このテーマは、色々角度を変えながら何度も考えて、2月のDOJOにつなげて行こうと思います。
大須賀淳

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