現在の歴史学界では、わが国における世襲王権の成立は
継体天皇以降(つまり6世紀)、というのが通説のように見える。
しかし、果たしてそうか。5世紀に遡るという有力な異論もある。
例えば『日本書紀』研究の先頭を走る日本古代史学者で
皇学館大学教授の遠藤慶太氏。『平安勅撰史書研究』『東アジアの日本書紀』『六国史』
などの著書がおありだ。
同氏が、以下のように述べておられる。「継体天皇は(それまでの直系の血筋を受け継ぐ
手白香皇女への)入婿として理解できる…
しかも手白香皇女·継体天皇のような意味合いの婚姻は2回目でした
(これ以前に雄略天皇の娘と仁賢天皇の婚姻の事例があった)。
…その理由は、(手白香皇女の父親だった)仁賢天皇が
(それまでの直系に当たる)允恭·雄略天皇からすると縁遠く、
倭王の地位を確かなものにするためには、前の大王の血筋の女性
(雄略天皇の娘の春日大娘皇女)と結婚することが
必要だったのです。…このように考えますと、5世紀の大王家、6世紀の大王家は
(女系を介して)連続しているのです。
もっといえば、(5世紀段階で既に)倭王位の継承が血縁に
規定されていたからこそ、(仁賢天皇は)入婿のような
婚姻が必要とされていた。…倭王権からの遣使を受けいれた5世紀の中国
(南朝の宋)では…倭王の地位は血縁によって継承されていると
認識していました…5世紀には世襲王権は成立していたと
みるべきです」(「継体·安閑天皇と倭王権」『大美和』
145号、令和5年7月刊)説得力のある見解だろう。
なお、5世紀の皇統を巡る研究史の批判については、
拙著『日本の10大天皇』(幻冬舎新書)参照。追記
①9月22日公開のプレジデントオンライン「高森明勅の皇室ウォッチ」
では、秋篠宮家のご長男、悠仁親王殿下の現在のご境遇の
お辛さについて取り上げた。②皇位継承の安定継承を巡り共同通信の「奏論」シリーズで
インタビューを受けた。
私と対立する論者として百地章氏の意見が同時に掲載されるという。
9月24日付朝刊以降使用記事として配信予定とか。【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/
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