わが家の居間には神棚がある。
と言っても、特別にあつらえた物ではない。
家を建てる時に注文して、居間を囲む三方の壁に、
書斎から溢れる本を収める本棚を、予め取り付けて貰っていた。
その棚の東に向かう(つまり西側の)一隅を空けて、
神棚に充てたに過ぎない。
中央に伊勢の神宮、向かって右側には地元の神社、
左側に靖国神社など何社か個人的に崇敬する神社のお札を祀る。
その前に三方(さんぽう)を置き、毎朝、お水を取り替えて、
簡単にお参りする。
家族が外に出掛ける時と帰宅した時にも、それぞれお参りする。
わが愛犬達(ダックスフンドの豆太郎と柴犬の大福、
2匹合わせて豆大福)も、家族の者が神棚にお参りをすると、
これから外出すると分かるようだ。
更に就寝前にもお参り。
神棚の隣りには亡父などの遺影が立て掛けてある。
亡なくなっても毎日、顔を会わせ、時に声も掛ける。
去年は郷里の倉敷で、父が亡くなって30年目の祭典を、
外から神職を呼ばず、私自身が奉仕した。
今年の夏も、郷里で母の3年祭。
白衣の上に浄衣(じょうえ)を着込み、笏(しゃく)を手にして、
霊前で奏上する祭詞(さいし)も勿論、私が心を込めて書いた。
この時には、それぞれ既に独立して、普段は仕事で忙しくしている
子供たち(長男、長女、次男)も集まった。
長女は結婚してシンガポールに住んでいる。
だが祭典には、シンガポール青年で優しくイケメンの
旦那も来日して、わざわざ一緒に参列してくれた
(ちなみに長女は7月23日のイベント「愛子さまを皇太子に」が
開催された時も日本に滞在中で、タイミングよく参加できた。
「イベントの第2部、盛り上がっていたけど、もしお父さんが
いなかったらどうなっていたんだろうね」
などと勝手な感想を述べていた)。
又、わが家では1年間に16ある「国民の祝日」のうち、
“いくつか”に日の丸を掲げる。
先ず、「憲法記念日」は祝う気がしない。
なので除外。
それから日にちが一定せず、“月曜日”に指定されている祝日も、
勝手ながら除外する。
「成人の日」、「海の日」、「山の日」、「敬老の日」、
「スポーツの日」(以前は「体育の日」)がそれに当たる。
だから、実際に日の丸を掲げるのは以下の祝日だけ。
1月1日、「元日」
2月11日、「建国記念の日」
2月23日、「天皇誕生日」
春分日、「春分の日」
4月29日、「昭和の日」
5月4日、「みどりの日」(この日はつい忘れがち…)
5月5日、「こどもの日」
秋分日、「秋分の日」
11月3日、「文化の日」
11月23日、「勤労感謝の日」
これらのうち、宮中で祭祀などが行われているのは以下の通り。
○1月1日、四方拝(しほうはい)・歳旦祭(さいたんさい)。
○2月11日、被占領下の昭和23年7月に施行された祝日法により
紀元節(きげんせつ)が廃止されたのに伴って、宮中の「紀元節祭」
も停止された翌年(昭和24年)以降、昭和天皇ご自身の強い
お気持ちによって毎年、この日に宮中三殿にて「臨時御拝(ごはい)」
が続けられた。
私が伺ったところでは、平成になって上皇陛下は
“臨時”御拝ではなく本来の祭典に戻すことを望まれたという
(その背景には、祝日法が改正され、同日が既に「建国記念の日」
という祝日として復活していた事実があったのではないか)。
しかし、当時の掌典職(しょうてんしょく、皇室祭祀のお手伝いに当たる)
関係者がそれに慎重な姿勢を変えなかった為(!)に、
呼び方のみを「“三殿”御拝」に改められたという、
申し訳ない経緯がある。
令和の今もその形が受け継がれている。
以上は、一般に余り知られていない事実かも知れない。
○2月23日、天長祭。
○春分日、春季皇霊祭・春季神殿祭。
○秋分日、秋季皇霊祭・秋季神殿祭。
○11月23日、新嘗祭。
拙宅の場合、玄関に日の丸を掲揚する設備がない。
その為、2階のベランダに掲げている。
下から見上げると青空を背景に2階で日の丸がへんぽんと
翻(ひるがえ)る光景も、私は気に入っている。
勿論、雨の日には掲げない。
このように毎日、神棚にお参りし、祝日には日の丸を掲げる。
そのような習慣をささやかながら続けて来た。
これによって、家族同士の結び付きだけでなく、
目に見えない神々や亡き魂との繋がりという「縦軸」と、
公(おおやけ)への回路という「横軸」が、僅かでも
家庭の“中に”入り込んでいる気がする。
今は別に暮らしている子供たちにも、それぞれ幼少期以来の
体験による影響が、少しは残っているのではないか。
親馬鹿ながら、我々両親を大切にしてくれ、きょうだい仲良く、
公的な関心も何とか人並みには持っているようだ。
なお長男の住まいでも、質素ながら御神札を祀っている。
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