昨日配信の小林よしのりライジング
「ジャニーズ問題と日本の性文化」
への読者コメントをご紹介します!
日本の性文化の懐の深さに驚きました。過去にゴー宣で慰安婦問題を学んでいたので、ジャニーズ問題についてのよしりん先生のご意見も自分なりにスムーズに理解できたと思います。
僕は、あるキリスト教会で管理的な立場にいます。よしりん先生が書かれているように、キリスト教的価値観は性に対してより厳格です。僕が所属している教会は結婚外の性交渉や同性愛的性交渉も戒めとして禁じています。僕はその教えを受け入れて改宗したので、その教えを尊重しています。
ですので、正直、ゴー宣で語られるような性に対する価値観は、僕の価値観とは異なることがあります。ただ、だからと言ってこちらの価値観で一方的に裁くことはできないとわかっていますし、国連の介入も冷めた目で見るしかありません。僕の価値観の多くはゴー宣によって築かれたので、自分はキリストを信じながらもゴー宣を愛している不良信者だと思っています。
ただ、キリスト教の中にも価値観の序列はあります。本来は、「純潔」よりも上の価値観は、「罪の赦し」であり、「悔い改め」です。私は立場上、純潔を守れなかった人の告白を受け、罪の悔い改めを促すということをすることがあります。その時に、罪びとである自分がその人の罪を裁けるはずもないと思っていますし、その人が戒めを守れなかったことを悔いて、それを改める決意をしていればそれで十分だと思っています。
以前にゴー宣でも紹介されていたことがあると思いますが、姦淫の罪を犯した女性について、モーセの律法では石で打ち殺せと書いてあるがあなたならどうするか、とキリストが律法学者たちから問われた場面が聖書に記録されています。それに対してキリストは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われました。
彼女に石を投げる人はだれもおらず、そこにいた人々は散り散りに去っていきました。そしてキリストは、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と彼女に言われました。
人は不完全であり、罪がない人はいません。キリストの教えはそこが前提になっています。人は罪があるものなので、キリストの贖いの犠牲が必要でした。ですので、キリスト教の価値観では、「純潔を破らない」ことよりも、「罪の赦し」が上位であると僕は個人的に認識しています。
そう考えると、まるで自分が罪のないものであるかのように、一心不乱に罪人に石を投げまくる大衆というのは、キリストもビックリの輩です。へたをすると、罪人ではない人にまで石を投げまくっていますね…。
キリスト教信者でありながら柔軟なものの見方ができるのは、ゴー宣のおかげだと思っています。LGBTQについても、とても勉強になります。ゴー宣的価値観を持ちつつキリスト教を信じている僕のような存在は圧倒的少数派だと思いますが、こういう変わったやつもいると知っていただければと思います。僕は絶えずゴー宣で学び続けています!ありがとうございます!
(NAOPPUさん)
コメントありがとうございます。感動しました。
純粋まっすぐ君、人権真理教の人は、
自分には全く罪がない、無謬の存在だと
思っているのかもしれません。
ああいう人に感じる怖さ、気味悪さは、
おそらくそこに由来するのでしょうね。