ゼレンスキー来日の警備だけはきちんと頼むぞと願いながら寒暖差に苦しんでいる倉持です。
今週の配信では、「保守/リベラルを語る意味と無意味」と題して、西洋哲学・思想史における保守主義とリベラリズムとはどういう哲学であり思想だったかということの確認をしつつ、日本において保守主義とリベラリズムは存在しているのか?を論じました!
まさに来週の道場の1人予習っす。
日本においては、明治と戦後の「断絶」後の国造りを伊藤博文や吉田茂など、「保守」「保守本流」と呼ばれた、漸進的な変化によって国造りを企図した人々が担ったわけです。が、その歴史的断絶後に、前からある家をメンテナンスしてよい家に作り替えていくという保守主義的な立場の人や「保守本流」と呼ばれた人々こそが、根本からの新しい家づくりを任される(新しい制度や政策を導入し改革していく)という、「保守」が「改革」担う非常に矛盾した&辛い立場におかれたため、漸進的な保守主義が定着しきらなかった。
一方で、福澤から連なるリベラル勢力が「政治勢力」としてはあまりに弱かったし、社会を規定することができなかった。また、戦後は革新勢力の台頭によって憲法を含めたユートピア的思想を革新側が「保守」するという倒錯も。
また、アメリカにおける「リベラリズム」の思想マッピングを無批判に導入したゆえの混乱や、そうこうしているうちに、内実は資本主義対社会主義であったものが冷戦構造の崩壊とともに、革新の「リベラル」への衣替えによってより一層わけわかんなくなります。これに憲法への立場(態度)が関数として加わると、もうめちゃくちゃです。
今回参照した東京大学の宇野重規先生著『日本の保守とリベラル』は日本の思想における歴史的系譜が大変よく整理されていました。宇野先生の1970年代後半からの日本の思想的漂流の分析は圧巻。1970代、成熟した社会が「モノ」から「コト(価値)」に移行していこうとした中で、日本もその危機感を持ったにもかかわらず、バブルのブーストもあり、強烈な「自己肯定」と「現状追認」を選択したことによって、その後の失われた30年を生みました。
むしろ日本は1億総中流=1億総既得権益=1億総私生活中心主義となって、結局「現状維持」&「自分さえよければよい(現状を死守したい)」という一人一人の利己的マインドを吸い上げた、自民党一強を生んだんですね。
現状維持という地盤沈下を肯定した人々に支持されたソフトな権威主義体制の完成です。
そんな私たちの頭を再度ガツン!と殴るのが、福澤諭吉の「惑溺(わくでき)」という概念や「痩せ我慢」、丸山眞男の主体論でした。
「惑溺」=「ある時点における価値規準を絶対視すること、固定的な閉鎖社会において、自らの思考や価値判断を絶対化すること」
…惑溺してる言論人とかエリートぶってる人めちゃめちゃ多くないですか??
自分の考えている価値が絶対の全能感で上から発信し続けている人、知識人にも多いですよね。まさに、それを喜んで歓声を送ってくれる「上顧客」の中のみのエコーチェンバーによって、「惑溺」状態になっている。
真の「主体」になり切れていないんですね、我ら日本人。再度丸山や福澤に気づかされました。反省。
個人的には、日本人の「悪しき」同族型集団主義、世間主義によるイエ・ムラ的価値観が、様々な制度が戦後解体される中で企業文化を通じて歪んだ形で残存し続けていることは大きいと思います。戦後型の”お父さんが上場大企業で働いて、お母さん103万円以内のパートで子ども2人大学生までいかせられる”、という「戦後型家族モデル」が企業文化(終身雇用、年功序列含めた企業家族主義)=「働き方」と強力にリンクして、ジェンダー観などにも色濃く反映しているし、染みついている。
そして、そういうもう実態とはあわない2023年において錆びついたモデルを「保守」しようとしている保守主義なき保守勢力に堕している政権与党。
保守主義は女性差別してもよいとか、リベラルは憲法の文言を一字一句変えないとか、まったく違いますからね!
そもそもの保守主義やリベラリズムを無視して、日本の超特殊磁場を前提として「保守は」「リベラルは」と論じることこそ、無意味です。
とにかく、思想関係なく、「惑溺」している人がいたら、「え、ちょっと惑溺してない?」って優しく言ってあげましょう。
憲法にもからめて論じてみました。是非、土日にご覧いただけたら嬉しいです!
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