映画「ヒトラーのための虐殺会議」を観てきた。
ユダヤ人絶滅政策について議論したヴァンゼー会議の様子を、
議事録に基づいて再現した映画だ。
政府の次官レベルや親衛隊幹部が集まって、
ユダヤ人の移送をどうするか、
計画的に殺害するにはどうするかを話し合う。
議論は淡々と進む。
ときに言い合いをしたりもするのだけど、
それはユダヤ人絶滅という政策の是非ではなく、
自分の党や省庁に迷惑がかからないか、
自分のメンツがつぶされないか、という
ムラの掟や保身によるもの。
誰もがユダヤ人の「最終的解決」に異論はない。
というか、それが当たり前の事実、大前提として
横たわっている。
そこにとてつもない不気味さ、異様さがあることを
想像できるか?
淡々と議題が進む中、これが観客に問われている。
私たちはナチス・ドイツの行き先を知っている。
ヒトラーの最期を知っている。
しかし大事なことは、その結末が未知だったとき、
全体を覆う「自明の空気」に、自分の常識をもって
疑問を持てるか、抗えるか、だ。
後半で、ユダヤ人の定義について話し合われる。
要するに「血」の話だ。
ユダヤ人とドイツ人のハーフ、
あるいはクオーターはどうなるか、
そしてまたクオーターでも純粋なドイツ人の伴侶が
いた場合はどうするか、その子供はどうするか、
いない人との区別をどう説明するか。
わけがわからなくなって、最終的に
「断種すれば "劣化" は防げる」と言い出す。
ここで会議は中断、その後、アイヒマンが
アウシュビッツ収容所の計画を発表して
ヴァンゼー会議は終わる。
ここからホロコーストが加速した。
日本でも「男系の血統」を声高に主張する人がいる。
高貴な血筋という文脈で語っているから
本人には差別しているつもりなどないのだろうが、
「血」で人間を分類しようとする発想そのものが
恐ろしいほどの差別なのだ。
虐殺をも容易に正当化するのだから。
歴史は、それを証明している。
問題は、その恐ろしさを認識できるだけの
知性と想像力があるかどうか、だ。
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