歴史上の女性天皇は果たして「中継ぎ」だったか、そうではなかったのか?
この問題を考える場合、いくつか手前に整理しておくべきことがある。
まず、そもそも皇位継承における「中継ぎ」とはどのようなケースを指すのか。
その概念規定を共有していなければ、意味のある議論はできない。
これまでの主な用法から帰納的に概念規定を試みると、
およそ以下のようになるのではないか。①他に本来、皇位を継承するに相応しい皇族が存在する。
②しかし、その皇族が直ちに即位できない何らかの障害がある。
③その障害が除去されるか、緩和されるまでの間、期間を限定して仮に即位している。これら①~③の条件を備えている場合、一先ず「中継ぎ」と見なしてよいだろう。
次に「中継ぎ」論が浮上した背景も見落とせない。
それは、前近代に10代8方の女性天皇がおられたにも拘らず、明治の皇室典範で
皇位継承資格を「男系男子」に限定するという荒業をやってのけた時
(第1条。大日本帝国憲法第2条にも「皇男子孫」とある)、
その正当化の為に持ち出された、という政治的事情があったという事実だ。
決して純粋にアカデミックな歴史研究の結果なとではなかった。この事実は、自由民権結社・嚶鳴社の討論筆記「女帝を立つる可否」
(明治15年3月~4月)における島田三郎の発言中に、女性天皇の即位を
「(中継ぎとして)摂位(仮の即位)に類」するとしたのを、井上毅(こわし)
の「謹具意見」(明治19年)が引用し、遂に“男系男子”限定の皇室典範第1条
(及び帝国憲法第2条)に結実した経緯を見れば、明白だ。
伊藤博文名義の『皇室典範義解』(明治22年)には、以下のように総括する。「推古天皇以来皇后皇女即位の例なきに非(あら)ざるも、当時の事情を
推源(すいげん)するに、一時国に当たり幼帝の歳長ずるを待ちて位を
伝へたまはむとするの権宜(けんぎ、時と場合に応じて適当に処置すること)
にほかならず。
これを要するに…後世の模範と為(な)すべからざるなり」このような政治的命題が、しばらく歴史学の世界においても
受け入れられていたのは、権威ある資料集とされた帝国学士院編『帝室制度史』
(第3巻、昭和14年)に「中継ぎ」論的な記述があった影響を、おそらく
無視できないだろう(『帝室制度史』への評価については、例えば
『國史大辭典』第9巻に「厳密にして正確な本文と豊富な史料により
高い評価を得ている」とある。後藤四郎氏執筆)。しかし勿論、現在ではそうした「中継ぎ」論の“呪縛”は、
少なくとも歴史学の世界では既に過去のものとなっている
(『戦後歴史学用語辞典』、『論点・日本史学』ほか参照)。過去の10代8方の女性天皇のうち「中継ぎ」と言える事例は?
先に述べた「中継ぎ」の概念における①~③の条件を備えているのは、
歴史上の10代8方の女性天皇のうち、かなり限られる
(①→他に本来、皇位を継承すべき皇族がいる。
②→しかし、障害を抱えて直ちに即位できない。
③→障害が除去されたり緩和されたりするまで期間限定での即位)。第33代・推古天皇、第35代・皇極=第37代・斉明天皇までは
そもそも譲位の慣行がない。
なので条件③が成り立たない。第41代・持統天皇についても、日本書紀に「皇太子」とされている
草壁皇子は、同時代において必ずしも皇位継承に優位な立場にいた訳ではなく、
第42代・文武天皇への譲位も持統天皇ご自身が政治力で
実現されたという事情から考えて、①②自体を欠いている。第43代・元明天皇、第44代・元正天皇については、
草壁皇子の直系に当たる第45代・聖武天皇への「中継ぎ」という
見方が有力だったが、早く亡くなった草壁皇子の地位上昇が元明天皇
の即位(及びそれに先立つ「皇太妃」への上昇)を前提としていることが
明らかになり(「皇太子」とされた最初の史料は元明天皇の即位宣命
〔せんみよう〕)、認識が大きく改まった(義江明子氏『古代王権論』
ほか参照)。但し、元正天皇の即位前年に首(おびと)皇子(後の聖武天皇)が
立太子した事実をどう評価するか。
皇太子・首皇子の即位に繋ぐ為の「中継ぎ」と見るか、それとも
立太子しながら元明天皇の譲位の際に直ちに即位“できなかった”事実を
重く見て、「中継ぎ」ではないと見るか、いささか微妙な判断を迫られる
(渡部育子氏『元明天皇・元正天皇』は後者)。第46代・孝謙=第48代・称徳天皇は「皇太子」になってからの
即位だったから、当然、先の①~③に当てはまらないので「中継ぎ」
とは言えない。では、第109代・明正天皇の場合はどうか。
即位された時点では①②を欠いている。なので「中継ぎ」ではなかった、
という見方もできる。
しかし、いずれ男子のご誕生が予想されたはずだと見れば、「中継ぎ」
だったと言える。
現に、後に生まれられた異母弟(第110代・後光明天皇)に譲位された
事実を考慮すると、「中継ぎ」だったと見ても的外れではあるまい。弟だった先帝(第116代・桃園天皇)の急死を受けて即位され、
その子(第118代・後桃園天皇)の成長を待って譲位された第117代・後桜町天皇は、
ほとんど唯一と言えるような典型的な「中継ぎ」の事例だった。このように見ると、10代8方のうち、「中継ぎ」の事例は多めに数えて3例、
少なく数えると1例だけということになる。
なお、近年の研究では男性天皇にも「中継ぎ」の事例があったことが指摘されている
(河内祥輔氏『古代政治史における天皇制の論理』ほか参照)。
政治的な動機から浮かび上がった女性天皇=「中継ぎ」論は、
今や完全に過去のものとなった。【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/
BLOGブログ