第26代・継体天皇は歴代の天皇の中で天皇からの血縁が最も遠い。
応神天皇の5世の子孫とされる(『上宮記〔じょうぐうき〕』逸文ほか)。「継嗣令(けいしりょう)」の規定(皇兄弟子条)では
“4世”までが皇親(こうしん、天皇の血族)とされていた
(養老令、但し大宝令にもほぼ同文の規定があったと推定されている)。
従って令の原則では、もはや皇親とは認められないほど、
遠い血縁だったことになる。もちろん、継体天皇当時にそのようなルールは無かった。
しかも、和歌山県の隅田(すだ)八幡神社に伝わる人物画像鏡
(503年、国宝)の銘文に「男(乎)弟(オオド)王」とあって
(継体天皇については上宮記・古事記・日本書紀に“オオド”
という名前を伝える)、同時代(しかも即位前)に令とは
無関係な用法として、「王」の称号が用いられていた事実から、
君主の血族と見られていたことが分かる
(従って、いわゆる「王朝交替説」は成り立たない。
詳しくは拙著『日本の10大天皇』など参照)。この天皇のご即位を巡って、先人がひたすら「男系」を守る為に
努力した結実という、歴史学とは無縁な“都市伝説”がある。
しかし当時、記・紀が仁徳天皇の系統の跡継ぎがいないことを
強調しているのと異なり、実際には同天皇の血筋を引く
「男系男子」が他にもおられたことが、丁寧な史料分析から
指摘されている(水谷千秋氏。「橘王」と「丘稚子
〔おかのわくご〕王」。同氏は他に「真若〔まわか〕王」も挙げるが、
古事記の“王”は男子に限らず、日本書紀に
「真稚〔まわか〕皇女」とあるので女子と見るべきだ)。
にもかかわらず、より血縁が遠いオオド王に白羽の矢が
立ったのは何故か。それは同王が広範な政治的ネットワークを掌握しており
(同時代に類例を見ない7ないし9方の后妃〔こうひ〕など)、
大和朝廷の政治力を拡大・強化する為に欠かせない
リーダーとして、擁立されたと考えられる。その際に、“血縁の遠さ”という弱点を補う必要があった
(女系でも垂仁〔すいにん〕天皇の8世の子孫)。
そこで、それまでの直系の血筋を引く手白香皇女
(たしらかのひめみこ、第24代・仁賢〔にんけん〕
天皇の皇女、第25代・武烈天皇の姉)との婚姻による
「入り婿(むこ)」的な皇位継承という形が採られた
(特に古事記の記述に注目)。よって、このケースでは「男系」都市伝説とは正反対に、
“皇統”として直系から遠く離れた男系より、
直系の「女系」の方が重んじられたと見ることができる。何しろ継体天皇の男子の場合、第27代・安閑天皇も
第28代・宣化(せんか)天皇も共に母親が地方豪族(尾張氏)
の出身なので、それぞれ直系の血筋の皇女との婚姻によって、
同じように入り婿的な即位を繰り返さなければならなかった。継体天皇の即位を巡っては、直系の手白香皇女が生んだ
第29代・欽明天皇からやっと“正統の血筋”が確立した
という経緯を、しっかりと見届けておくべきだ。なお、直系の皇女だった手白香皇女ご自身が
即位されなかったのは、シナ中心の国際秩序である冊封
(さくほう)体制に組み込まれた「倭の五王」時代を経て、
女性君主を阻む“シナ化”のトレンドが存在した為と考えられる。最初の“女性天皇”であられた推古天皇(「天皇」という称号を
名乗られた最初の君主でもあられる)の時代に、冊封体制からの
“自覚的な”脱却が果たされた事実は、もちろん決して偶然ではない。【高森明勅公式サイト】
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