今週の #クソすば は、「政治と宗教と憲法~政教分離のうつろい」と題してお送りいたしました。
日本国憲法の政教分離は、国家神道ヘッジから出発しており、初期設定が「政教分離=国家神道からの分離=厳格分離」となっております。だからこそ、政教分離を語ることが民主主義や平和主義にもコミットするという不思議な定式があったわけです。
ただ、2022年の現代において、もうこの後ろ向きな定式では政教分離という装置としては機能困難なのでは。
そして、判例・裁判例も、日本国憲法の政教分離規定は「ある一定の類型での関わり方を禁じている」にすぎない、と解釈してきていることもおさらいしました。
と同時に、その前提にある私的領域(市民的公共圏)と公的領域(国家的公共圏)を厳然と区別するリベラルな立憲主義の「タテマエ」も無理がありませんか?というお話もしました。この区分自体がリベラリズムの落とし穴だし、私的なアイデンティティを私的領域に押し込もうとするあまり、公共圏から脱落したアイデンティティ・ルサンチマンがトランプや極右政治を生んだのではないでしょうか。
宗教でいえば、「政教分離=国家神道」定式を公的領域(国家的公共圏)で意識するがあまり、私的領域(市民的公共圏)でのカルトの横行、選挙運動というこの両領域の最大のグレーゾーンにおける宗教(もどき)の野放しにつながったのでは??
一方で、「政教分離」という言葉がこの社会の「空気清浄機」「浄化装置」のように使われることにも大変な危惧感を覚えます。僕らはそんな無菌状態には生きられないということを受け容れることからしか、リベラリズムや立憲主義の再生は不可能なのでは??
さらに、「政教分離」という大きな単語で論じられていることをよくみると、それは消費者問題、選挙運動や選挙システムの問題、皇室制度の問題、テロの問題、地域衰退とコミュニティの問題だったりするわけで、これらはこれらの問題として個別に論じるべきだと思います。
「政教分離」という概念ですべてを語ろうとすると、その概念に負荷をかけすぎるがあまり、当該概念が形骸化、無力化するからです。その概念のもつ射程(用途)を適切に限定すればするほどその概念の”切れ味”が上がるはず。
そういう意味で、今回の旧統一協会等々の問題で明らかになったことは、「政教分離」みたいな大きな言葉で論じるのではなく、それぞれ個別の問題としてきめ細やかに論じるべきでしょう。
具体的には、事前規制としてはロビイングやロビイストの活動を透明化する適正化法案を早急に立案し、事後的に、国ないしそれに準ずる機関の政教分離違反を誰かの権利侵害とは独立して直接的には問えない現在のシステムを改善すべく、特別の訴訟類型等を可能にする法律を制定してはどうでしょうか。
法律家なので、最後は法システムに昇華・消化したいと、考えておりまっくす。
そんなお話をしましたので、是非!ご覧ください!
『政治と宗教と憲法〜政教分離のうつろい〜』倉持麟太郎「このクソ素晴らしき世界」#57 presented by 8bitNews
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